◆ 323・音楽療法と音楽健康法

東京学芸大学大学院 教育学研究科 松本晴子
   弘前大学医学部 神経精神科 天保英明
    徳島大学医学部 第一内科 板東 浩
はじめに
 健康は誰もの願いである.平均寿命が男女とも世界一の高齢社会の日本において,現在,健康産業が隆盛をきわめている.健康産業には
1) 高齢者や障害者が生活しやすくなるようなバリヤフリーと言われる段差をなくす住居改築,2) 健康の回復・維持促進のための健康食品や栄養ドリンク,3) スポーツトレーニングジムやカルチャーセンターでのダンスなど,4) 指圧やマッサージ,5) 趣味教養の充実,などがある.健康新聞1)健康産業新聞2)のweb上でも,実にさまざまな情報が発信されている.本稿では生活の質の向上を目指すという目標は音楽療法と同じであるが,対象を健康な人,健常者とする音楽健康法について述べる.

1.「健康」とは
 健康の定義は,WHO憲章の前文に記されている「健康とは単に疾病や障害がないだけでなく,身体的,精神的,社会的に完全に良好な状態である」が広く用いられている.健康のモデルは,これまでに諸説が発表されている.その一つに1974年の発表以来多くの人々によって受け入れられるようになったラロンド(Lalonde,M.)の健康モデルがある(図1).Lalondeによると健康は1) 人間生物学、2) 環境、3) ライフスタイル、4) 保健医療体制の4領域の組み合わせによって成り立つという.このモデルに基づき1979年米国公衆衛生総監は,死因順位1位から13位までの分析を行い,死因について,ライフスタイルが50%,人間生物学と環境がそれぞれ20%,保険医療体制が10%関与しているとの見解を発表した3).Lalondeが提唱した4領域によって健康が成り立つという考え方は,複雑な要因が影響しあって健康が保たれていること,健康であることの奥深さを示している.
 
2.総合科学としての健康科学
 WHOの健康の定義に示されている身体的・精神的・社会的健康に関する科学的基盤となる学問分野としては,①生物学②医学③心理学④社会学⑤社会心理学などがある.前述のLalondeの健康モデルの4領域に関する科学的基盤となる学問分野としては,①生物学②医学③環境科学④社会心理学⑤行動科学⑥教育学⑦文化人類学⑧経済学⑨経営学⑩法律学など3) 各分野への拡がりが考えられる.まさに健康科学は健康に関する学問領域を網羅しているものである.
 1985年設立の日本健康科学学会設立の趣旨には「健康をつくり,健康を守るためにすべての学問を学際的な視野のもとで総合化し,医学を含む人間についての諸科学を基盤にして,新しい総合人間科学としての健康科学の確立をめざす」とある.疾病の治療を重点とする臨床医学とは異なるが,生命力・人間生活全体の在り方の総合的研究である健康科学の推進は,高齢社会においてますます必要とされることである.

3.音楽療法と健康科学
 音楽療法は精神病患者や障害児,入院患者への音楽による治療的効果が見られたことから始まった.治療としての音楽療法とは,対象者が音楽活動を行うことによって,その障害や病気の程度に改善が見られ,より良い生活が送れるようになることを目標とするものである.医師や音楽療法士は,対象者の状態を見極めて,さまざまな手法の中から適切な対応を考慮しアプローチを進めていく.
 今日の音楽療法の大きな特徴は,対象者が精神病患者や障害児などの病気を抱えた人だけにとどまらず,心身のリラックス,感情のコントロール,特殊な状況での不安の軽減(手術,透析,歯科治療)など,予防医学にも適応が拡がってきたことである.
 予防医学は健康な人を含む.しかし健康な人が疲れたときに音楽を聴いて癒されることは厳密に言うと音楽療法ではない,という考え方が強い.
 治療という意味での音楽療法から見てみると,音楽療法は健康な人には適用することにはならないかもしれないが,健康科学の視点から音楽療法を捉えると,健康法として音楽は適用され得ると考える.つまり,健康科学の視点から音楽を捉えた場合,健常者がストレスで病者にならないよう,自分なりの音楽との接し方や工夫をし,「音楽を楽しみながら」心身の健康を保つようにすることである.これは「音楽健康法」と言える.現在日本において一番関心が高いのはこの音楽健康法の分野である.癒し,ヒーリングミュージック,カラオケなどによりストレスの解放やリラクセーションを得て心身の健康を保とうとするのはまさしくその代表である.音楽健康法はストレスや過労死などの問題から行政にとっても高い関心事となっている.地方自治体によっては,保健婦さんを音楽健康法の指導者にして,心身の保健衛生的な試みを行っている4).
 健常と病気の境界線を行ったり来たりしている人も大勢いるなか,音楽療法と音楽健康法ははっきり区別するのではなく,お互いの音楽の使い方の違いを明確にしながら研究が進められていくことが望まれる.音楽療法の適応の拡がりと同時に,音楽健康法についての学問的追求や行政的なレベルで考える組織的なものが必要となってきているといえる.
 
4.音楽健康法における音楽のポイント
 健常者が対象の音楽健康法の場合,音楽療法士が目の前で次々と即興演奏したり,曲を一方的に提示されたりするのでは,かえって煩わしかったり気を使ったりしてストレスを溜めてしまう.
 健康な場合,身体的には病者でも精神的には健常者である場合,音楽の鑑賞を主とし選曲基準も音楽美学の考え方に近づけることがポイントである.なぜなら,音楽療法においては,選曲基準に医学的根拠などを問われることがあるが,演奏会のプログラムは医学的考慮の基に出来ているわけではない.演奏会に音楽を聴きに行く人は音楽を愛し,音楽に対する理解と審美眼(音楽美学)を持ち,すぐれた音楽を聴くことが日常的に行われ健康に寄与しているのである.自らの能動的行動で健康を保つことは,美学的に良いものは医学的にも良い結果をもたらすという音楽健康法の理想的な姿を示しているともいえる. 
 個々の曲について,ストレスや安眠ができるなど効能をうたって選別されたものも存在するが,そのすべてに医学的根拠を規定することは無理な面もあり,曲の持っているさまざまな可能性を限定して受けとられる恐れもあるので,あまり好ましいことではない5).

 次に音楽健康法における選曲基準を5つ示す(表1). 
音楽健康法における音楽の聴き方で最も大切なことは,耳で聴く音の中にさまざまな音楽美を感じ取って,精神的な感動や充足を得るということである.先入観なしに虚心に音に聴き入るのが望ましく,得た感動は言葉で言い表せなくても良いのである.
 ある曲を聴いてその人の症状が一時的におさまるという対症療法で終わることなく,音楽健康法を受けたりあるいは自ら音楽を鑑賞することによって,その後の人生に音楽をうまく活用して豊かな音楽の趣味を育て,充実した生活を送れるようになることが大切である.

5.日本人の音楽観・音楽美学
 日本人の音楽観・音楽美学の大きな特色は,音楽が自然と一体になって聴かれることを理想とすることである.それゆえ音の響きだけでなく,音と音の「間」に美を感じ音楽をとりまく自然の音や雰囲気や情緒も音楽美の一環として鑑賞される.芸術的な音だけを純粋に追求する西洋の音楽美学と比べて,はるかに幅広い.
 美の種類では,『あはれ=雅楽』,『幽玄=能』,『さび・尺八古典本曲』が日本の三大美である.それに対し西洋の三大美は『優美』,『崇高』,『ユーモア』である.日本と西洋では正反対の価値観がみられるが,すぐれた音楽を正当に評価する点では美学の一致がみられる6).
 今までは音楽療法にしても音楽健康法にしても,西欧の音楽を中心として発展してきた.しかしこれからは,日本人は日本のすぐれた音楽観を正しく理解し,生活に生かし,楽しみながら育てていくこと,つまり日本独自のさらには各地域の音楽土壌に応じた音楽健康法・音楽療法があるのではないかという可能性について
研究していくことも必要である.
 
おわりに
 一般に音楽療法は病気の人や障害者のものと考えられがちである.その一方で,カラオケで歌を歌ったりコンサートに足を運び感動したり癒されたりすることも音楽療法の範疇に入るものと考えられている.しかしこれは,厳密に言うと音楽健康法と呼ばれるものである.今日の日本のストレス社会が音楽健康法と音楽療法を混同しているといえる.混同の原因は,ストレス社会で生活している社会人はもとより,こどもから高齢者まで心身の健康を保ちたいという願いと期待を持っているからであり,音楽療法への期待が大きいためと考える.
 本稿では,音楽という重なる部分ではなく音楽療法と音楽健康法の違いについて視点をあててみた.音楽療法も音楽健康法もより健康になるために,より生活の質を向上させるためにという共通点がある.療法か健康法かの違いは,①音楽を医師や音楽療法士主導で用いるか,主として自分の意志で用いるか,②親しみやすくわかりやすい曲で原曲にこだわらないか,精神的内容を持った音楽基準を考慮した音楽か,ということに集約できる.
 気軽な気持ち,リラックスした気持ちで音楽健康法を捉え,生活に取り入れていただければ幸いである. 

表1 音楽健康法における音楽の選択基準 

第一の基準:真の名曲を選ぶ 
第二の基準:名曲の本来の美しさを充分に発揮した名演奏を選ぶ
第三の基準:安易な編曲や省略をした演奏は避けて,原曲(オリジナル)の形の演奏を選ぶ
第四の基準:広くいろいろなジャンルの音楽を選ぶ
第五の基準:聴く人の状況を考慮し音楽的,心理学的配慮をする

文献
1) http://www.sinbun.co.jp/kenkou/index2.htm
2) http://www.health-industry-news.co.jp/
3) 江口篤寿:新教育学大事典.第一法規,東京p.42,1990.
4) 小松明・佐々木久夫:音楽療法最前線.人間と歴史社,東京p.255,2000.
5) 上掲書 p.206
6) 上掲書 p.201

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