21世紀の癒し

「心の病に効く薬はありますか?」「この薬を飲んで下さい。病気にはあまり効かないんですが・・。」

これは、演劇の一場面である。21世紀最初の2001年1月。新宿で公演されていた演劇「白衣は踊る」を私は観ていた。舞台の上には、ロバート山田氏という才能豊かなアクターただひとり。精神科医のようにカウンセラーを演じたり、はっつぁん、熊さんと落語を演じたり。話題は、政治・経済・医療から、芸術・芸能・宗教まではば広い。白いタイツ姿でクラシックバレーを踊ると思えば、下駄を履いてタップダンスを踊る。伝統衣装に身を包み、「歌舞伎マン」としてニューヨークやパリに進出。シャンゼリゼ通りの路上パフォーマンスによって、パトカーに乗せられるなど、エピソードは数知れず。彼の幅広く深い演技力は、まさに類いまれなものであろう。

 彼のステージは、吉本と心理学が融合したようなものと評されている。4月には「ER/精神救急救命室」という心理学と芝居との融合による実験劇場が予定。日本メンタルヘルス協会が後援しているというのも興味深い1)。

 私は、バラエテイに富む彼の芸に腹を抱えて笑いながら、一方では、冷静にステージの演出を観察していた。1つのシーンを余り長時間伸ばさず、場面を切り替えている。音楽コンサートでは、曲目の配列を強弱、遅速、硬軟と交互に配置するが、それに似ている。メインステージの隙間の時間帯には、スライド映像とビデオを挟み込んでいる。心理的空白が生じないように、うまくコーディネートしているようだ。

 これらの手法は、私にとって参考になった。というのは、私もステージで同様なプレゼンテーションをすることが多いからである。生活習慣病や音楽療法、芸術療法、運動療法などについての講演は、すでに300回を越えた。私の基本的手法は、スライド映写とピアノ演奏が中心だ。話題の隙間には、ビデオを採り入れたり、聴衆が歌や踊りに参加できるように工夫している。慣れてくるにしたがって、最近はアドリブが多くなってきた。私がずっと考えてきたことは、「もっと人々の心にインパクトを与え、聴衆の心と身体が、緊張と弛緩を気持ちよく繰り返してもらうために、どのような手法と内容を用いるか」である。

 演出だけではなく、ロバート山田氏の演劇内容は、理性と感性のバランスが良いと感じた。笑いには、駄洒落、大げさな表現、ぼけとつっこみ、ブラックユームアなどなどいろんな種類がある。彼の笑いは、医学、精神医学、心理学をベースにして、芸術や芸能などを織り交ぜたもので、お洒落に笑うことができた。

 今回、彼がテーマに選んだのは「癒し」。癒しとは、仕事から疲れて家に帰って風呂に入り、湯船の中でフーと力を抜いたときの感じである。現代はまさに「癒し」の時代。いつでも、どこでもマイブームは「癒し」。癒しと銘打って商売しているものこそ、怪しく、卑しい、と言う人もいる。現代の「癒し」は、表面的な安らぎや和(なご)みの雰囲気で使われ、本来の癒しの意味と異なるのではないかと、私は感じている。

 「癒し」という漢字の成り立ちについて、やまいだれの中にあるのは「愈」。この字は、「丸太をクルっとくり抜いて作った小さな舟」を意味する。ここから転じて、「身体の中にある病気のかたまりを、クルっとくり抜いてしまうこと」を、「癒」という字で表現したのである。

 以前の日本には、高度成長時代があった。お腹がすいていても、学生は、勉学やスポーツなど、何事もとことんまでやったような気がする。勝負には実力と運が作用し、勝つ時も負ける時もある。がんばっても、結果が良いときもあれば、逆に悪いときもある。しかし、一途な思いで努力したプロセスには、充実感が感じられた。だから、勝っても負けても泣くことができたのである。

 他方、サラリーマンは、自己や家族をある程度犠牲にしながらも、会社のために尽くす企業戦士であった。物づくりに命をかけた人々のドキュメント「プロジェクトX」がNHKで放映されている。あの時代には、仕事にかける真摯な思い入れがあり、プロジェクトを遂行するために、様々なドラマと人生があったのだ。彼らは、命をかけて、責任や職務を果たしていた。

 このように、学生も社会人も、それぞれ目標を持って努力していた。当時、勉学や労働の諸条件は十分とは言えず、いろいろな工夫をしながらやっていた。ここには、自分と友人や同僚との関わりあいや、笑いや涙ながらの苦労の思い出が必ずあり、これこそが大きな財産だった。苦悩をのり越えたことがあるからこそ、人は癒しを感じられるのではないだろうか。また、お互いに共通体験があったり、苦しい経験を理解してあげられるからこそ、人を慰め、人を癒すことができるのではないだろうか。

 現代の日本は、豊かになりすぎてしまった感がある。コンビニが身近にあってペットボトルを持ち歩き、飢えや渇きを感じることがない。この人間の本能を我慢した経験がない人は、他の些細なことにでも我慢することはできないのである。

 遊びも変わった。本来、身の回りにあるどんなものでも、遊びの材料となった。しかし、おもちゃは買い与えられるもので、作ることも考えることもしない。子供はテレビゲームで一人で遊び、高校生や大学生になって、小学生レベルのいたずらをしている。叱られたことがないので、善悪や状況の判断、仕事と遊びの境界線がわからないのである。運動会の徒競走では、一生懸命走るのは格好悪いという。一方、ITが普及することで、「クール」が格好いいという価値観に変わってきてしまった。

 このような状況だから、勉学やスポーツなどを毎日コツコツと継続したり、苦しい体験を持つことができる子供が少なくなった。このように育った人が、他人の苦しみや境遇に共感でき、癒してあげることができるだろうか?

 先日、世界の若者に対するアンケート結果が発表された。中国や韓国の若者は、立身出世や社会に役立つ人間を目指している。米国では、新しい会社を起こしたいという夢があり努力している。日本の若者は何の希望や目標もなく、フリーターとして、毎日が楽しく暮らせたらよいという。

 どうも、最近の日本には、「discipline」の学童や青年は珍しくなったような気がする。disciplineという英単語は訓練と訳されるが、研修医としてトレーニングを受けている人や、学問やスポーツで修練している人にも用いられる。なお、discipleは弟子、門人、使徒という意である。以前には、いろいろな職業で弟子のような修行や修養をすることがあったが、現代ではお目にかかれることは少なくなったようだ。

 若者には4つのタイプがあると言われる。コツコツ青年(勉強好きのマジメ青年)、ふわふわ青年(流行を追う遊び人的青年)、イライラ青年(いつも焦燥感にさいなまれている青年)、ゆうゆう青年(周囲の状況にあまり影響されない、我が道を行く青年)である。それぞれのタイプで、ストレスや癒しに対して、感じ方や対処法が異なるものと思われる。

 人を癒す方法には、音楽がある。現代、高齢者における癒しの曲は、童謡や昔の歌謡曲である。10歳代の多感の時期に聴いて慣れ親しんだ曲は、一生その人のキーワードのように、キー曲となる。曲を聴くと当時の思い出や映像が一緒に回想することができ、治療やケアとして有用である。一方、現代の子供は童謡を知らず、音楽の洪水の中で、溺れかけている状況だ。彼らは将来、心を癒す自分の曲を持てるのだろうか、と心配になる。

 多くの日本人は、美空ひばりの「川の流れのように」の歌によって心が癒される。しかし、現代の日本に生まれる多くの歌は、うたかたのように生まれては消えて、川の流れのように流れていってしまっているのが現実ではないだろうか。

 先日、20世紀最後の紅白歌合戦をみた。2000年に流行した歌に加えて、古く懐かしい歌も楽しんだ。フィナーレでは、二足歩行のヒューマノイドロボット「ASIMO」が舞台の中央で、歌手と手をつないでステップを踏んでいた。ロボット犬の開発・進化が進み、人間ロボットもこのレベルまでになった。ファジー理論やロボットの判断機能、ITの発展から推測すると、この技術は10倍-100倍-1000倍と短期間に進化するだろう。今世紀中には、癒しのマニュアルをプログラムされたロボットが、私たちの心身を和ませ、慰め、癒してくれるかもしれない。

資料
1)心理カウンセラーに憧れた芸人と、芸人に憧れた心理カウンセラーの二人で行う「ひとり講座とひとり芝居」。

 問い合わせは、電話03-5731-6862・http://www.mental.co.jp

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