苦悩から安らぎへ

 本稿は、医学と音楽のシリーズの49回目である。12年を超えて長く続いてきたと思う。49という数字は、私が好きな数字の7、ラッキーセブンの二乗に相当するものだ。

 ところで、昔から日本では、欧米とは異なり、4とか9とかいう数字が忌み嫌われてきた。その発音から4は死、9は苦のイメージに関わってくるからだ。特に、両者が合わさる49という数字はよろしくない。仏教の教えにある四苦八苦を連想することになる。数字で表すと、4X9=36、8X9=72となり、両者を合計すれば108。従って、人間の煩悩は108個あると昔から伝えられているのだ。

 筆者が小学生のとき、大好きだったテレビ番組が「巨人の星」だった。今でも覚えている一つの場面がある。星一徹が星飛雄馬に「硬式ボールの縫い目は108あり、煩悩の数と同じなのだ」との話。1年の最後の日、大晦日に、108個の鐘の音を聞きながら、行く年、来る年について熟考すると、悟りがひらけるかもしれない。

 このような仏教の話で恐縮であるが、人生の苦悩を音楽で表現し、歴史に名を残した著名な作曲家は、鬱病やそううつ病などを病み、精神的・心理的に問題がみられた場合が少なくない。このような作曲家たちが集まって、一緒に眠っている場所があるのをご存じだろうか?
     ◇     ◇     ◇
 音楽の都として知られるオーストリアの首都ウィーンを訪れたとき、筆者がまず立ち寄ったのは「ウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)」であった。欧州最大規模の敷地を持つ市営墓地であり、埋葬数は4百万人にのぼる。ここに有名な「楽聖特別区」(第32区A)の一画がある。

 モーツアルト、ベートーベン、シューベルトの墓が並んでおり、観光の名所の一つとして有名だ。すぐ傍らには、同じ音楽家としてブラームスとヨハン・シュトラウス2世の墓がある。さらに、胃の手術の術式で歴史的に名前が残っている有名な外科医ビルロートの墓も、その近くで静かに佇んでいる。

 著名な作曲家たちの中で、ベートーベンが苦悩の人生を送ったのは広く知られている。最後の交響曲第9番「合唱」(歓喜の歌)は、別名「第九」とも呼ばれる。年末には全国各地で演奏会が開催されるなど、日本人の生活に密着した存在だ。なお、私がつけた別名は「大苦」である。

 今回は、これらの作曲家の中でブラームスに注目してみたい。その理由の一つは、彼が真面目で優秀な音楽家であったゆえ、鬱病にかかるなど、苦悩があったから。他の理由は、ブラームスが19年かけて完成した交響曲第1番が、後に「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語られ、現在に至っているからである。
     ◇     ◇     ◇
 それでは、ブラームスの生涯について、医学や心理面を中心に紹介しよう。
・1833 年、ハンブルクにコントラバス奏者の父 のもとで出生。
・10歳 室内楽演奏会にピアニストとして出演。 優れた音楽家マルクスゼンに師事し、バッハ、 モーツァルト、ベートーヴェンを深く研究し、 技巧をマスターした。この教育の方向性により各作曲家の価値を探究し尊敬したのだろう。
・11歳 ラテン語フランス語等を学ぶ。優秀であ るがゆえに鬱病にも陥り、18歳時には自己批判 から作品を破棄してしまったことも。
・20歳 歴史と哲学の講義を傾聴。シューマン夫 妻宅で自作のソナタを演奏し高く評価された。 シューマンは音楽評論誌に「新しき道(Neue  Bahnen)」と題し、天才の出現を記載。
・21歳 シューマンが投身自殺をはかり、その後、14歳上のシューマンの妻クララと親しくなり、以降、深い友情で結ばれた。
・25歳 ソプラノ歌手アガーテと熱烈な恋に落ちる。彼女への愛はブラームスの生涯で最も真剣なものだったが、結局婚約を破棄される。
・32歳 胃の手術で有名な外科医ビルロートと会う。バーデン・バーデンの温泉療法で過ごす。
・45歳 ビルロートとイタリアへ旅行。作曲したヴァイオリン曲は牧歌的、田園的で、風光明媚 な雰囲気や旅行の印象が垣間見られる。
・46歳 ブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、お礼に翌年「大学祝典序曲」を贈る。
・56歳 トーマス・エジソンからの依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音。この際、初めて自身の老いを自覚したという。
・57才 意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿の整理を開始。
・61歳 友人でウィーン大学教授であるビルロー トが没す。
・62歳 オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝 から、芸術と科学に対する金の大勲章を授与。
・63歳 ベルリンで大学祝典序曲と2曲のピアノ 協奏曲を指揮し、最後の指揮となる。鉱泉飲用 療法でカールスバートに滞在。体力低下。
・64歳 演奏会で、やつれたブラームスの姿に、 聴衆は各楽章ごとに、愛情と敬意で激しい拍手、 感涙にむせんだ。肝臓ガンによって昏睡に陥り4月3日永眠。4月6日ウィーン中央墓地に埋 葬された。
     ◇     ◇     ◇
 「新古典派」と呼ばれるブラームスの特徴は、その重厚な音の構成である。ピアニストでもある筆者がラプソディという曲を演奏するとき、ピアノの鍵盤で一番低いラの音の鍵盤(27.5ヘルツ)を弾く。この音がグワーンと響くと、会場の床が振動し、身体が震えてくる。ブラームスのピアノや歌曲では、豊かで力強い音を響かせるため、ピアノの重低音をうまく使う場合が多い。

 音響学的に説明しよう。ピアノの鍵盤で低いドの音を弾き、ペダルを踏んで弦を自然に鳴らしてみる。すると1オクターブ上のド(2倍音)、ソ(3倍音)、ド(4倍音)、ミ(5倍音)、ソ(6倍音)・・と、多く
の音程の弦が共鳴してくるのだ。つまり、一つの弦を響かすことは、単音ではなく、倍音として多くの弦が一緒に共鳴し震えている状況と言える。
     ◇     ◇     ◇
 さて、ブラームスの性格と生育歴との関係を分析してみたい。ブラームスはベートーヴェンに近い個性を有していた。自然が好きで、よく散歩に出かけた。一方、人との付き合いが下手で、社交嫌い。無愛想で皮肉屋、自分の気持ちを率直に伝えることが苦手で、恋愛下手な性格であった。

 これらはなぜだろうか? 1つは、遺伝と環境因子として、頭は良く、最初に習った先生の影響があるだろう。自分には音楽の能力があり完全主義者だったので、弟子にも厳しく叱責した。

 2つめは生育歴だろう。ブラームスが生まれたのは、父27歳、母44歳のとき。高齢出産で大丈夫かと心配するほどだ。通常の母の愛に包まれて、というよりも、厳格で祖母のような教育的立場で育てたようだ。だから、いつも若い乙女に失恋し、14歳も年上のクララ・シューマンに生涯憧れ続けたのと関連するだろう。優しい母をずっと追い求めていたのかもしれない。

 換言すれば、母親との関係が不十分であったために、マザコンの可能性もある。また、彼は音楽関係者としばしば衝突し、友人と決別し数年後に和解するなどのエピソードを繰り返していた。一方、友人として誉れ高い外科医のビルロートとは長年うまくつきあうことができた。その理由は、ビルロートは医者で、専門が異なるため、いざこざが少なく、ビルロートも紳士としてつきあっていたのだろう。とにかく、ブラームスの仕事には、ビルロートの支えが大きくプラスになっていたようだ。
     ◇     ◇     ◇
 本稿では、最初に4と9の話をしたが、不思議なことに、音楽との共通点が認められる。ピアノの鍵盤で、音階に数字をあてはめる。つまり、ドが1、レが2、ミが3という具合だ。通常、和音の基本はドミソと135なので、昔から5の和音と呼ぶ。ポピュラー音楽の和声学が次第に広がってきた。すると、ドミソの基本和音にラ(6)またはシ(7)を常にプラスする方法が普及してきている。これらは6の和音、または7の和音と呼ばれている。また、ドビュッシーが多用したのは、レ(2)をしばしば加える和音だ。

 以上をまとめると、ドレミファソラシの中で、ファ(4)を除き他の白い鍵盤をすべて同時に弾くと、現代風で安らぐ和音となる。不思議なことに、すべてを包含し統合する方向性に、和音も何事も進んでいくような気がする。

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM