目標を目指して

 空中で宙返りする板東選手!足に履いているのはインラインスケートだ。とうとう彼は、アクロバット・スケーティングにまで、挑戦するようになったのか?いや、違う、違う。テレビで見るような、かっこいい空中回転ではない。何たって、着地は、背中とお尻でごろんと受け身をしたのだから。

 この宙返り、私はしようと思ってしたのではない。実は、足がひっかかって、仕方なく三次元で派手な動作になったというわけ。

 平成15年7月、岐阜県のモンデウス位山で行われたインラインスケート・スラローム大会。全国から集まったスケートおよびスキー選手150名が、100分の1秒を競う。

 本大会はスキーの回転競技に似たもの。冬なら雪上に旗門を設置し、スキーでジグザグに滑リ降りる。今の季節は真夏。雪の代わりにアサファルトの上で、旗門を倒しながらインラインスケートで滑走するものだ。スタート地点では、オリンピックさながらの光景がみられる。選手がスタートするのは20秒ごと。5秒前から1秒間隔で信号音が鳴り、足元のバーを蹴って、約300mのコースに飛び出す。

 参加者の中で、シニア男子は20名。午前の部で私のタイムは41秒53でトップ、2番3番に約0.8秒の差だ4番以降は2秒以上離れている。十分に、足ごたえを感じた午前の滑走だった。

 午後のコースは、旗門の数は午前の29から32に増加。ほぼ直線で長い部分があったり、急旋回や細かなステップが必要な部分があったりと、タフなコースになった。難しいコースとは、急な折れ曲がりがあったり逆にほぼ直線の部分があったりと、ターンのリズムが一定ではないもの。この設定はまさに難関。赤色と青色の旗門は交互にある。その間隔は、長い所に比べて、短い所は3分の1以下しかない。すなわち、次の旗門だけでなく、2~3個先の旗門を見なければ、滑走コースや身体のバランスを決められないのだ。

 私はコースを何度も観察して、難しいポイントを頭に叩き込んだ。その上で、スタートの順番を待った。午後の滑走順は、午前のタイムの遅い順から。従って、私がラスト。国際大会と同様で観客は盛り上がり、面白いゲーム展開となる。いよいよ、スタート。低い姿勢から飛び出した。いい感じだ。7-9番目が狭く難関で、10番の旗からスピードを上げ、13番目まではほぼ直線である。順番を数えながら滑走できており、落ち着いている様子。難関にうまく入り、姿勢を低くしてクリアーできた。ほっとした。10番目の赤色の旗門を突破し、「直線で加速だ」と思った次の瞬間、「あれ、次の旗門がない!」。すると、急に目の前に青の旗門が迫ってきた。かわすのは難しいか、と感じたとき、私は空中を舞っていた。

 次のターゲットとなる旗門を確認しないまま、加速してしまったのだ。方向が違っていたが、気がついた時にはすでに遅い。補正できないほど軌道からずれて、片足が旗門のポールにひっかかってしまったのだ。

 今回の失敗から、いろいろと反省した。まず、難コースは十分に記憶していた。一見冷静と思われたが、難関をクリアした後、次の進路を考えるのを忘れてしまった。すなわち、心の油断と慢心、あせりがあったと言える。

 しかし、午後の滑走が旗門の不通過によって失格になったとはいえ、実は、内心では充実感を味わっていた。というのは、私が求めるのは結果ではなくプロセス。入賞という結果はなくても、自分が予想していたレベルまで、ほぼ到達できたと思うからである。

 今回の大会に対する目標は2つあった。小刻みな足の動きで速いスタートダッシュ、身体を柔軟に低い姿勢を保つこと、である。

 平成15年1月、群馬冬期国体で、私の課題が明らかになった。成年男子500m予選でスタートラインについたのは7名。現在は年齢枠がないので、私以外は18~22歳の大学生だ。スタートして200m 1周までは6位、最後は抜かれて7位と最下位。順位はともかく、連続5年の出場で、タイムはベスト記録を出すことができた。46歳でもまだまだ進化しつつあることを証明できたのだ。

 しかし、後でビデオをみて驚いた。500mでは負けても、スタート後30mぐらいは、いい勝負と思っていたのだ。でも現実は厳しかった。一歩一歩の伸びも全く悪ければ、私の足の回転速度もとても遅い。こんなレベルでは全くダメ。

 足が小刻みな動きをできるように工夫した。階段はいつも2段飛ばしで昇るが、これは筋力をつけるため今回、高速度で階段を降りる練習を始めた。足の筋肉をリラックスさせた状態で、緻密な動きができるように。芝生の上では、サッカー選手を真似て、あらゆる方向に片足ずつピョンピョンと細かく飛ぶように試みた。

 水中でも、腰をひねってゆっくりと歩行したり、ふくらはぎや足首を使った細かなステップを訓練した。通常の大人用プールに加えて、子供用の浅いプールで小刻みなダッシュも試みた。以上を続けていると、次第に足の動きが速くなった。

 もう一つの目標は低い姿勢。身体の柔軟性が必要だ。私は若い頃から体が柔らかく、前屈すれば足底から手指が20cmほどは前に出る。しかし、この程度では不足と感じた。毎日風呂から出たあと、開脚の姿勢で前屈・側屈・回旋などのストレッチを20分以上行った。この際には、扇風機の風を体一杯に浴びて冷やしながら、開脚した脚の間で新聞を読みながら、興味があるテレビ番組をちらちらと見ながら、という一石二鳥~三鳥の方法だ。すると、滑走中の姿勢がさらにが低くなったのだが、太ももが腹部に食い込み、窮屈に感じた。このとき、清水宏保選手が「滑走中に邪魔となる、腹部内臓を上に押し上げる」と話していた意味が理解できた。

 近年、身体の柔軟性が失われつつあるのをご存じだろうか?運動習慣が少なくなり、体が硬くなっているという。その一因は拮抗筋の機能低下。関節を曲げるときに、拮抗筋が完全に弛緩しないので、それが抵抗になり身体が硬くなるのだ。

 たとえば、ある関節に伸展筋と屈曲筋があり、それぞれ16個の神経と小さな筋肉単位とがあると仮定しよう。常に緻巧性に富む運動をしていると、拮抗する筋肉は互いに微妙な収縮や弛緩を繰り返される。でも、運動をしなくなると、細かいコントロールは不要に。そこで、8本か4本で事足りるだろう、と適応現象が起こってしまう。すると、動きは鈍く稚拙となり、筋肉がうまく弛緩しないので柔軟性も悪くなる、というわけだ。

 レースが終わった後、近くにある観光地「飛騨の里」に立ち寄った。「文学散歩道」を散策していると、江夏美好の文学碑に引き寄せられた。「飛騨の下々の国である、大化の改新のおり、国制を「大上中下」の四等に定められたが、飛騨は山また山の辺かくゆえ下国のなかでも『下々の国』と呼ばれたという」

 と。井上靖と田中澄江のお二人の石碑もあった。

         <井上靖>
 人間が作った古い歴史と文化の町を、自然が作った大山脈小山脈が取り巻いている。冬になると、山脈という山脈は雪に覆われ、夏は隅々まで飛騨の貌をもつ優しい人間に鏤められている。
         <田中澄江>  
  飛騨の高山に人々は何を求めて行くのか。木で作られた町の姿の良さ それが古びて、なお存在する美しさ。そこには、日本の遠い昔からの伝統的建築様式があるだけでなく、そこに住み着いた人間の心の歴史もまた積み重なっている。

 日本の歴史を振り返ってみよう。長年、中国や欧米の文明・文化を目標とし、追いつけ追い越せ、と走り続けてきた。しかし、今後は、明確な理想や模範が見つからない。指向する対象がわからないので、何となく不安に感じてしまう。経済は閉息し、落ち着かない社会であるが、次の目標を設定せずに加速するのはダメ。また、速くて簡単なものがいいと、補助器具を用いて能力以上のスピードで楽に滑っていくのもどうかと思う。各自が目指す方向を決め、着実に歩んでいきたい。

 近頃、街にはコンビニ店やチェーン店が建ち並ぶ。日本のどこの町でも、同じような風景になりつつあるこのような時代だからこそ、飛騨のような鄙びた土地を訪ね、豊かな自然の中で、日本の未来を思い巡らしてはいかがだろうか。

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