東洋の神秘

 2000年初春、私は銀座の歌舞伎座にいた。37年ぶりに新橋演舞場と2会場で、歌舞伎大舞台の公演である。壇浦兜軍記のステージでは、坂東玉三郎と中村勘九郎が共演。善人は白い顔、悪人は赤ら顔と、一目でわかる演出だ。日本の伝統文化に触れようと、外国人の姿も少なくない。

 遠い昔、人間の感情表現として歌や踊りが生まれた。本邦では「魏志倭人伝」に2-3世紀に歌や踊りがみられたと記され、呪術や農耕儀式を中心に発展。平安時代に空海、最澄が伝えた密教の声明(しょうみょう)が、日本の歌い物や語り物の原型となった。声明の一種である御詠歌を聞くと、まさに演歌と感じる。日本の歌の元祖はお経なのだ。江戸時代には三味線が普及し、1603年にかぶき踊りが興行を始め、歌舞伎が誕生。創始者は「出雲の阿国(おくに)」で、昨年同名の演劇で浜木綿子が熱演し、楽しませて頂いた。

 歌舞伎は基本的に音楽劇である。舞台の下手の黒御簾(みす)で、下座(げざ)音楽が演奏される。唄(歌)や舞(踊り)に合わせるほかに、幕開き、雨音、足音、幽霊につくドロドロなど心理的な効果も演出。日本の音楽は、歌いと語りの総合芸術として発達してきたのが特徴だ。言葉と音楽を分離せず、一体にとらえてきたのである。

 さて、歌舞伎の言葉のごとく、歌って舞いながら、ピアノを演奏する大ピアニストをご存じだろうか。かの有名なグレン・グールドである。演奏しながら、ハミングどころでなく、はっきり聞こえるほどの声で唸りながら歌う。片手が空いていれば、かならず手を振り指揮をしながら演奏するのである。ハンチング帽子と手袋をいつも身につけ、とても低い特製の椅子で弾くというエピソードでも良く知られている。

 グールドはカナダの天才ピアニスト。当時、新しい解釈・斬新な演奏で音楽界を揺り動かし、バッハのゴールドベルグ変奏曲はベストセラーとなった。ニューヨークで住めば、人気沸騰しただろう。しかし、コンサートを拒否し、静かなカナダの郊外で暮らし、主にレコード録音を行った。図書館で音楽のコーナーに足を運ぶと、彼を研究した多くの書籍が所狭しと並んでいる。というのは、彼にまつわる多くの謎があるからだ。

 その解答のひとつが、このたび本邦で公開された映画で明らかになった。「グレン・グールド/27歳の記憶On the Record, Off the Record」(1959年、カナダ)である。録音風景と舞台裏を集録した前半と、自然豊かな郊外で暮らす生活やインタビューの後半とで構成されている。

 天才グレン・グールドは、衆目の前でコンサートを行うよりは、長い時間をかけて最良のものを生み出す録音を好んだ。言い換えれば、舞台において、華麗なプレイやステージ栄えを追求するのではなく、自分をみつめる録音を選んだのではないだろうか。彼は都会に住まず、自然と共生する毎日だった。人と会うよりも、電話を好んだ。これらの事から、間接的な交流を好み、芸人ではなく職人かたぎ的な価値観を持っていたと私は推察している。

 孤独を愛し、映画は好きだったという。しかし、他人の演奏会に行くのは、気が進まなかった。その理由を、彼は「何よりも、演奏家の心理が手に取るようにわかってしまうので、他人の演奏会では、ひどく落ちつかなくなります。自分の演奏会よりもはるかに気を揉むのです」、と述べている。

 実は、私はこれに近い不思議な体験をしたことがある。36歳の時、24年ぶりにピアノコンクールに出場し、四国大会で大学・一般の部8名で競演した時。他の7人の演奏と動作をみていると、心のあせりや動揺している状況がびんびんと私に伝わってきたのである。

 これに遡ること約3カ月、コンクールの準備を始めたが、大学卒業後は多忙な生活のため、ほとんどピアノを弾いたことがない。鍵盤に触れる時間は十分取れず、車の中でCDを聴きながら考えることが主な練習方法であった。

 課題曲はショパンのエチュード「大洋」。1秒間に12個以上の音が洪水のように重なりあって押し寄せ、大きな波、小さな波を表現する曲だ。テンポが速すぎて1つ1つの音は聞きとれず、演奏者は何を伝えたいのか、まったく理解できない。CDによって解釈は千差万別で、表現は全くばらばら。頭の中は霞(かすみ)がかかり、暗中模索。また、楽譜を穴があくほどじっと眺めて、なぜショパンはこの音符をここへ入れたのか、を熟考する日が続いた。神経を研ぎ澄まして集中するため、疲労困憊する苦しい心の修行だ。

 ずっと考え続けてしばらくたった時、何か悟りが開けたような不可思議な心の状態になった。今まで聞こえなかったすべての音が手に取るように分かる。バラバラだった各演奏者の表現は、根底ではすべて共通しているのだと感じた。一歩一歩山道を登っていて、あるときふっと雲の上に出てきた時に下界をすべて見渡せるように、頭の中の霧が次第に消えて晴れ渡り、すべて見通せる、聴き通せる、という気持になったのである。すると、他の人が演奏しているのを脇からみると、不思議とわかってしまったのだ。

 これを医学的に分析してみよう。人間の五感、特に視聴覚は、防衛反応のためか、通常はブレーキがかけられている。ふっと居眠りした数秒の間に長い物語の夢をみることがある。高所から飛び降りたり、交通事故に会ったりすると、あっという間の瞬間であるはずだが、ものすごくゆっくりと感じられ、走馬燈のようにすごい速さで頭脳が働くのがわかる。

 野球の中継映像ではどうなるか。通常のフィルムは1秒間に数十コマだが、ピッチャーが送球する瞬間には、1秒間に数千コマを流す。だから、スローモーション映像でゆっくり観ることができるのだ。人間は、何かに集中したり、危機(クライシス)に面したり、神様からインスピレーションを受けたりするときなどには、このようにものすごい速度で頭脳が回転し、潜在能力が活性化されるのではないだろうか?

 さて、話は戻るが、大作曲家からインスピレーションを受けていたと思われるグールドは、自らの演奏をdetachment(離反、距離をおくこと)と評した。悲しいときには気が済むまで泣く。嬉しい時には思いっきり喜ぶ。これは心身の立場からみると健康的だ。しかし、我々の感情たるものは、それほど単純なものではない。悲しくても笑ったり、おかしくても泣くこともある。自身の複雑さに気がついておらず、感情的になると盲目的になってしまう。あたかも作曲家と感情を交わらせたかのように、過剰にセンチメンタルな演奏は、決してロマンティックとは言えない。

 感情から、自分をすこし距離を置く。過度に感情移入をせず、喜怒哀楽からすこし突き放し、傍観者として眺めてみる。これを夏目漱石は「非人情」と記した。不人情ではなく、非人情である。夏目漱石の「草枕」を愛読していたグールドは、漱石から少なからず影響を受けたのだろう。

 音楽療法の歴史から2人を紹介しよう。数学者のピタゴラスは音楽家でもあり、心をいつも平穏にできる音楽を作曲し、弟子に聴かせたという。これは「心頭滅却すれば火もまた涼し」という心を無にする仏教的で東洋的な考えだ。一方、アリストテレスは西洋的で、嬉しいときははしゃぎ、悲しいときは泣くと、カタルシス作用で心は浄化されると説いたのである。

 グールドは執筆に忙しく、ラジオ番組で草枕を朗読したり、ラジオ・ドキュメンタリー制作を行うなど、新たな次元での創作活動も行っていた。音楽だけでなく広い教養を持ったグールドは、西洋よりも、むしろ東洋的な文化や価値観、美学に憧れていたのではあるまいか。彼は50歳で黄泉の国へ旅だったが、今もなお、音楽を含めた芸術の研究活動をしているだろうか。1972年、地球外生物に向けて、人類の遺産を積んだパイオニア10号が打ち上げられた。この中には、グールドの演奏も納められている。天才グールドという小宇宙から生まれた音楽は、現在もなお、大宇宙の中を飛び続けているのである。

 さて、このたび、平成12年1月下旬には、市川猿之助が演じた斬新なスーパー歌舞伎「新三国志」の受賞式が行われた。義理人情をからめた大スペクタクルの脚本・演出に感動したのを覚えている。私は最初のスーパー歌舞伎「ヤマトタケルノミコト」を見てから大ファンとなり、進化しつつある舞台が楽しみである。世の変化にうまく対応できるのは日本人の特質だ。これからも、歌舞伎の発展や、日本文化の世界に対する影響を期待したい。もし、グールドが今ここにいれば、猿之助と同じ試みをしていたかもしれない。

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