日本SFの父

 その黄昏れゆく地帯の直下にある彼の国では、ちょうど十八時のタイム・シグナルがおごそかに百万人の住民の心臓をゆすぶりはじめた。

「ほう、十八時だ」
「十八時の音楽浴だ」
「さあ誰も皆、遅れないように早く座席についた!」・・・

 博士コハク、男学員ぺン、女学員バラの三人は黙々として、音楽浴のはじまるのを待った。地底からかすかに呻めくような音楽がきこえてきた。

「ちぇッ、いまいましい第39番のたましい泥棒め!」ペンは胸のうちで口ぎたなくののしった。

 第39番の国楽は、螺旋椅子をつたわって、次第々々に強さを増していった。博士はじッと空間を凝視している。女学員バラは瞑目して唇を痙攣させている。男学員ペンは上下の歯をバリバリ噛みあわせながら、額からはタラタラと脂汗を流していた。

 国楽はだんだん激して、熱湯のように住民たちの脳底を蒸していった。紫色に染まった長廊下のあちらこちらでは、獣のような呻り声が発生し、壁体は大砲をうったときのようにピリピリと反響した。

 紫の煉獄!
 住民の脂汗と呻吟とを載せて、音楽浴は進行していった。そして三十分の時間がたった。紫色の光線がすこしずつうすれて、やがてはじめのように黄色い円窓から、人々の頭上にさわやかなる風のシャワーを浴びせかけた。

 音楽浴の終幕だった。
 螺旋椅子の上の住民たちは、悪夢から覚めたように天井を仰ぎ、そして隣りをうちながめた。
「うう、音楽浴はすんだぞ」・・・

 小説「十八時の音楽浴」の冒頭の部分である。このような内容が、1937年という時代に発表されていた。描かれているのは、音楽で国民を洗脳するという恐ろしい未来社会。科学は万能ではなく、悪用された場合には、人間は、そして人類は、科学の怖さを思い知らされることになる。

 このようなscience fiction(SF)文学を執筆していた科学者が当時いた。その人とは「日本SFの父」と呼ばれている海野十三(うんの じゅうざ)。彼の本名は佐野昌一で、代々徳島藩の御殿医の家系だ。ぱりぱりのご城下、お城の門から一町ほど下った所で生まれた。開業していた祖父・渉に感化を受け、科学が大好きで頭脳明晰な少年として育った。早稲田大学理工学部を卒業後、逓信省電機試験所に勤務していたのである。

 その頃、探偵小説家としてデビュー。「少年倶楽部」や「大毎小学生新聞」に書いた「海底大陸」「怪鳥艇」「火星兵団」などによって、日本中の少年少女の心を大きく揺さぶったのである。

 横溝正史や江戸川乱歩との親交もあり、海野の小説を読んだ手塚治虫などが、その後の日本のSFを発展させていくことになった。

 そういえば、私が憧れ尊敬している手塚先生が漫画の世界で描き続けてきたものが、次第に現実のものとなっている。1999年にはロボット犬のアイボ、2000年末の紅白歌合戦に登場したホンダのロボット「Asimo」など。2001年夏にブレイクしているスピルバーグ監督が作った「A.I.」では、キーワードを入れると親に愛情を抱くようになるロボットの子供が主人公。母と子の愛だけでなく、様々な示唆が折り込まれている素晴らしい映画だった。今後、人間はいったいどこに向かうのか、と感じたのは私だけではないだろう。

 さて、先日、徳島では、「海野十三の特別講演会」が行われた。海野の研究者で広島ペンクラブ幹事である天瀬裕康氏が講演を行い、新資料も発表した。彼の本名は渡辺 晋、実は広島県大竹市で開業している内科医なのである。

 この企画は、年に1回、今はなき海野十三を慕う研究者の集まりに合わせて、行われた。徳島市街地の中心には、市民の憩いの場である城山(しろやま)と緑豊かな中央公園がある。この中に、海野十三文学碑が立つ。この碑の前で、海野からのインスピレーションを賜りながら、科学者・文学者などが共に語りあう。

 文学碑には、江戸川乱歩自筆の文章が大きく書きつづられている。「全人類が科学の恩恵に浴しつつも同時にまた、科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔の反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている。かくのごとき科学時代に、科学小説がなくていいのだろうか」海野は肺結核による喀血にも苦しみながらペンを捨てぬ、立派な最後であったと伝えられている。そのエビデンス(証拠)は、江戸川乱歩氏が、弔辞として記しているものの中にあるので、是非とも紹介したい。

 「海野君の懇切を極めた友情は、友人後進達の凡てが口を極めて称える処だ。君はなくなるその日にすら友情の手紙を書いている。一例をあげると僕がある事件で手紙を出したのに対し、なくなる当日の十七日に返事を出してくれている。それにはいつもの君の上手な毛筆で要件の他に、私の心臓が悪いという事を伝え聞いてその養生法について懇切を極めた言葉が書き連ねてあった。そして最後に、「私も大分元気づきました」と君の明るい近況が書いてあったのだよ。十八日近親のお通夜もすませて帰ったその翌朝、君からの手紙がついた。私は涙をこぼしてこれを読んだ。・・・いささか私事に至ったが探偵作家一同を代表してこの言葉を捧げる。・・・」

 このような歴史があったのか、と私は驚かされた。海野自身だけでなく、彼の母、最初の婦人も結核で倒れていたのである。科学者であった彼は、自分の肺結核の状態をある程度理解していたことだろう。それも、黄泉の国へ旅立つその日においても、友人の江戸川乱歩への返事を書き、「私も大分元気づきました」と相手を慮って筆をしたためている。

 医者が患者をみる場合や、人と人とが関わる場合に、共通することがある。[If I were you](もし私があなただったら)と立場を変えて考えてみることだ。もし、私が海野だったら、咳き込んで喀血して息もできず、まさに苦しみの極みという状況で、このように書いたであろうか?

 彼は芸術にも堪能だった。書画、カメラの腕は抜群。「十斉」の雅号で俳句も詠んだ。絵の才能は著書の中で自ら描いた漫画に生かされた。レオナルド・ダ・ビンチのように、才能が溢れていた。おそらくその日も、彼の頭の中はコンピュータのデスクトップの画面みたいに、やりたい仕事の書類が山積み。急ぐ順番にクリッ
クして仕事をこなしていたのではなかろうか?心身が疲れてはいても、友を想いながら、命の限りまで仕事に自分をかけ、燃焼しつくしたのかもしれない。

 彼は近い将来のロボット社会の功罪をリアルに論じ、その未来予測は当たっているようだ。科学の持つ二面性を冷静に見据えつづけられた少ない人物の一人であったことは間違いない。

 戦争や病気により体を壊し病没して五十年がたつ。それでも、今もなお海野の功績がたたえられ、全集も刊行されている。それは、海野が未来をつくる子供たちに向けて、作品を発信しつづけたからだろうか。多くの科学者・文学者の中で、幸運な作家の一人であると言える。

 
資料
 1) 海野十三全集13巻, 三一書房, 1987-93年.
 2) 海野十三の会. 海野十三メモリアル・ブック. 先鋭疾風社, 2000.

写真1)海野十三の顔写真
写真2)文学碑の江戸川乱歩の書

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