文化の香りを味わう

 2005年5月~7月は、私にとって、医学と音楽に関わるニュースが続いた時期だった。そこで、つれづれなるままに記してみたい。
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 まずは、5月27~31日に、一大イベントがあった。日本プライマリ・ケア(PC)学会が主催する「アジア大平洋地域世界家庭医会議(WONCA Asia Pacific regional Conference 2005)」が、京都国際会議場で開催されたのだ。世界から約2600名の参加者があり、黒川清氏(日本学術会議会長)や尾島茂氏(WHO西大平洋地区事務局長)による教育講演などもあった。また、グローバル・スタンダードとしての家庭医療・一般医療に関するシンポジウムや、教育や研究のワークショップが企画され、一般演題としてのポスターセッションでも諸外国のPC医療の現状が報告され、活発に議論がなされた。

 このような学術部門に加え、ソーシャルプログラム部門もあり、私は本部門の責任者を務めた。と言えば何となく格好がよいが、実際はいわゆる宴会部長としてパーティを盛り上げる役割である。つまり、Welcome PartyおよびFarewell Partyで司会とピアノ演奏・伴奏を担当したのだ。音楽に国境なしと言われているように、国や言葉を超えた交流で親睦が深められ、皆さま方に喜んでいただけたと思う。

 後になって、WONCA本部や諸外国の参加者から、「京都2005はsuccessfulでexcellentだった」と高く評価され、世界大会の開催までも打診されたとお聞きした。当然、学術部門の内容が素晴らしかったのが主な理由だろう。しかし、最初と最後のパーティの雰囲気が、少なくともお役にたてたものと思われ、関係者は嬉しく思っている。

 そのパーティを歌で盛り上げた先生方は、いずれもPC学会の幹部である。通常の臓器別専門の医学会とは異なり、機能的専門家であるPC医が集まる当学会のメンバーは、柔軟性に溢れ、芸術や文学に精通している先生方が多いのが特徴。特にカンツォーネ「オ・ソレ・ミオ」でヤンヤヤンヤの拍手喝采を受けたのが、副会長の田代祐基先生。以前から、内外の会で私の伴奏でエンターテイメントを披露してきている。会員による余興のためプロのミュージシャンを雇う必要もなく、学会の経費節減に大いに貢献しているだろう。
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 6月下旬、その田代先生(熊本県医師会理事)のお声掛けによって、私は熊本にいた。熊本県四病団体支部1)による合同研修会として、音楽療法講座を企画していただいたのである。

 熊本城の近くにある熊本ホテルキャッスルで研修会が行われ、会場設営には田代先生の斬新なアイデアがふんだんに盛り込まれた。スクリーンとグランドピアノはいつもと同じだが、通常と異なるのは椅子の置き方だ。スクリーンと演者を丸く半円形で囲むように座席を設置し、まるで円形劇場のようだ。講演中でも聴衆や観衆は座席でじっとしている必要はなく、部屋の両サイドにあるコーヒーやクッキーを、いつでも好きな時に自由に取って食べる。まさにPlease help yourself方式で、肩が凝らず和やかな雰囲気となり、「これは今後も使えるぞ」と感じた次第であった。

 私のレクチャーには、ピアノの生演奏や動画、ストレッチ体操などが含まれる。だから、真面目な講演というより、むしろステージを楽しんで頂くようなもの。聴衆は大声で歌って熱くなったり、私の駄洒落で寒くなったりと、温冷刺激による温熱効果まであるのだ。いろんな趣向のおかげで、研修会は大成功だった。

 講演後、当地の馬刺しを御馳走になりつつ、歓談しているときのこと。事務局の方が即興の和歌をさっと毛筆で書き下ろし、田代先生が微笑みながら批評し指導している。私も川柳が好きなので、なるほどと思いつつ、球磨焼酎の香りとともに、文化・芸術の香りまで、楽しませていただいた。
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 この機会に、念願のラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn、小泉八雲)の生家を訪れることができた。市の中心部の一角に、静かなたたずまいがある。ギリシアに生まれて英国で育ち、米国で新聞記者となり、文壇にも登場。1890(明治23)年、島根県の松江中学校に赴任し、翌年熊本の第五高等中学校へ。1896~1903年まで東京帝国大学の講師を務めた。

 八雲が書いた小説で、よく知られているのが「怪談」。その中には、耳なし芳一のはなし、雪おんな、おしどり、お貞のはなし、などがある。原文と和訳の一部を示すので味わってほしい。

 ☆Some centuries ago there lived at Akamagaseki a blind man named Hoichi, who was famed for his skill in recitation and in playing upon the biwa. ‥‥

 ☆幾百年か前、赤間が関に芳一という名の盲人が住んでおりました。芳一は琵琶を奏でながら吟じるのが巧みなことで知られていました。 ‥‥

 英文は平易でわかりやすい。声を出して読んでみると、強弱の2拍子のリズムが感じられる。八雲の文章は、推敲をかさねて無駄がなく、美しい英文であると評価されている。美しい日本の原風景や熊本ゆかりの内容を、英文で世界に紹介した功績はとても大きいと思う。

 興味深いことには、夏目漱石が松江→熊本→東京と移動した同じルートを、直後に八雲もたどっている点だ。漱石が辞任させられた帝大講師のポジションに八雲が直後に着任するなど、不思議な縁で、しばしば比較されている。

 漱石が熊本滞在中に「我輩は猫である」のモデルとされる旧居も訪問できた。これに隣接する洋学校教師館は、西南戦争の際に征討大総督の御宿所となり、博愛社(日本赤十字社の前身)の発祥の地ともなったところだ。

 上記に加えて、熊本のキーワードを挙げてみると、熊本城、武者返し、加藤清正、治水土木工事の神様、細川家、宮本武蔵などがある。これらの文化や教育、経済の発展を包括して考えてみると、素晴らしい人々が歴史を作り、文化や自由・自主独立の気風を育ててきたような気がする。
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 7月には、世田谷パブリックシアターで、「新編・我輩は猫である」(シス・カンパニー公演)の舞台を鑑賞した。細君は小林聡美、金之助(漱石)は高橋克実、我輩(猫)は高橋一生が演じていた。

 舞台は明治38(1905)年で、ちょうど100年前。本作品から誰もが感じることは、「一世紀の間に私達が忘れ、失ってしまったものがどれほど多いことか」であろう。しかし、逆に「不変のものもあり、新しく生み出されていくものもある」。これらの歴史や文化の展開を認識したうえで、将来に向かって進んでいきたいものだ。

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