成長ホルモンとモーツァルト

 桜前線を追いかけるように北に向かった新潟への旅。平成6年4月、春の訪れを祝うような暖かい風の中で、日本内科学会総会が開催されていた。会場になった新潟県民会館近くの白山公園の桜が今が盛りと咲き乱れている。暖かい四国に生まれ育った私にとって、北の桜は春を待ちわびて色づいているかのように見え、淡い薄紅色の花たちは旅の疲れも忘れさせてくれた。

 県民会館を出て、ぶらりとあてもなく歩く由緒ある町並み。春風に誘われるように、古町通りにさしかかったとき、「モーツァルト」という文字が私の視野に飛び込んできた。

 引き込まれるように店内に入ると、所狭しと並ぶクラシックのCDの数々。棚にはNaxosやMarco Poloなど外国でプレスされたCDもあり、店名にふさわしいモーツァルトのものも多い。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、音楽をこよなく愛し、ピアノ演奏を趣味とする私にとって、この名前は瞬時にしていろんな想いを駆け巡らす。彼は1756年に生まれ、わずか3歳でピアノを正しく弾き、5歳でメヌエットを作曲、6歳からは宮廷などで御前演奏をしていたという。幼少の頃から「神童」と騒がれた、まさに早熟型の天才。彼の才能は満ちあふれていたが、彼にも一つだけ足りないものがあった。彼は身長150 cm以下という背丈しかなかったのである。

 私は内分泌学を専攻しており、この低身長は成長ホルモン分泌が不足したためと考えるが、それはなぜだろうか?考えてみれば、彼の生涯は旅と共にあった。わずか6歳にして、「ステージパパの元祖」といわれる父レオポルドと、ヨーロッパ各地に演奏の旅に出ることになる。馬車に揺られながらの長旅では、手足を伸ばし、ゆっくりと眠れることが少なかったであろう。「寝る子は育つ」といわれているように、成長ホルモンは眠っているときに一番多く分泌されることが知られており、成長期に熟睡できなかったことが第1の原因と考えられる。

 それに、第2の原因として、その時代の生活環境や衛生環境が悪かったことが挙げられる。レオポルドは7人の子供をもうけたが、生きながらえたのは三女のマリア・アンナとアマデウスの2人であることが過酷な環境を裏付けているようだ。その上、不規則な長旅では、バランスがとれた栄養を取れなかったこともあったに違いない。

 さらに、アマデウスは小児期に多くの病気を患っている。記録によると、6歳から11歳までに毎年、結節性紅斑、上気道炎、扁桃腺炎、腸チフス、関節リウマチ、天然痘と病魔に見舞われ続けた。抗生物質があるわけでなく、治療として悪い血を除くために瀉血などの原始的な治療が行われていた時代なので、いずれの病気も遷延したのが第3の原因であろう。

 最後に、父親との関係も原因の一つ。レオポルドは、早期に息子の才能を見抜き、音楽家として周到な指導をし、自分の仕事を投げ打ってでも息子のために尽くしたといわれている。しかし、また、息子を売り出そうという欲深い面も持っていた。最近、「愛情遮断症候群」という子供の疾患が知られるようになった。愛情がない家庭の子供の背は伸びないが、この親と別居すると急に背が伸びだすという。彼の場合は、逆に、多年にわたる父親の愛と支配が大きなストレスになったことは否めない。また、母親と離れた旅で、母の庇護を受けられることが少なかったのかもしれない。

 ところで、成長ホルモンは視床下部と下垂体のいずれもがうまく機能しなければ正常に分泌されない。彼の行動や性格から判断して、視床下部機能に何か異常があった可能性も皆無ではない。

 1781年、彼がウイーンに安住の地を見つけた時はすでに25才。もう成長するには遅すぎる年齢であった。しかし、彼の残した数々の音楽は、無限に成長し続けている。魔笛、フィガロの結婚、数多いピアノソナタなど、今もなお親しまれ愛されているモーツァルト。もし彼が日本を旅することができ、ゆっくりと桜満開の白山公園を散策することがあれば、彼の身長もあと5 cmくらいは伸びていたかもしれない。

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