孔子と琴の音

 有朋自遠方来、不亦楽乎
 闕里賓舎ホテルの玄関に掲げられているこの言葉は、旅人の疲れた心と身体を温かくもてなしてくれる。西の空が夕陽で紅色に染まる頃、私たちはようやく、中国山東(サントン)省曲阜(キョクフ)市のこのホテルに到着した。

 夜には、正統山東料理で2500年の伝統を誇る「孔府菜(コンフーツアイ)」に舌つづみを打ちながら歓談。そのあと、ホテル2階の音楽茶座で古楽舞のショ-が始まるというので一番前に陣取った。まず、「編声」という、金属で作られた鐘が、いくつも紐で吊された楽器がばちで打たれ、音楽が始まる。続いて、中国の琴や管楽器で、古典中国音楽が奏でられ、それに併せて、頭に冠をつけた麗しい女性が、妖艶な舞踊を披露。最後には、「編鏡」という、石が紐で吊るされた打楽器が打ち鳴らされて、音楽が終わるのである。

 ここ曲阜市は孔子の故郷。孔子(前551-479)は、御存知のように、儒家の祖である。孔子は、現実の人生にいかに処すべきかについて述べ、人間相互の愛情を重んじて道徳政治を説いた。孔子の血は脈々と受け継がれ、曲阜市の人口50万人のうち10万人が孔姓であるという。直系の子孫の一人が孔祥林で、最近、話題作の「孔子家の心」1)を著している。

 ホテルの横には、孔子をまつる大聖堂で、儒教の総本山である孔子廟がある。漢代以降、儒教が国教となり孔子の地位が高まるにしたがい、歴代皇帝の手厚い庇護と崇敬を受け、規模は次第に大きくなり、総面積は約22万m2。翌朝、私たちはすがすがしい空気を一杯に吸い込みながら、数分歩いて孔子廟の南端から入った。そこの門には「金聲玉振」と大きな文字が書かれている。

 孔子之渭、集大成也者、金聲玉振。
 その昔、孟子は「孔子の教えはすべてを包括しており、すべてを理解して悟りをひらいた人の言葉は、まさに素晴らしい音楽のように、私たちの心を和ませる」と述べた。「金聲玉振」という言葉は、昨晩の音楽を私に蘇らせた。すなわち、金は鐘で、聲とは宣べること、玉は磬(石製の楽器)で、振とは収(おさめる)。「先ず、鐘を撃ちて、その聲を宣言し、終わりには、特磬を撃ちて、その韻を収めて、楽を一終する。よりて、智徳の大成せるに喩ふ」、のである。金聲が「編声」で、玉振が「編鏡」に当たり、音楽は金聲から始まり玉振で終わるのだ。

 以前にインドネシアのバリを訪れた時、ケチャックダンスやフロッグダンスの最初には、イントロあるいはプレリュードとして「金聲」に相当するような楽器が使われていた。身近なものでは、音楽や演劇が始まる時に合図として鳴らされる「ウィンドチャイム」があり、誰もが、音楽ホールで経験しているだろう。低音から高音へのアルペジオの音色が、キラキラと光輝くガラス玉を散りばめられているような極彩色の世界を、私たちの心の中にイマジネーションさせる。そして、これから始まるコンサートに胸ときめくのだ。これらは、「金聲玉振」を起源としているのではなかろうか?。

 さて、孔子が理想の人物として思慕したのは、周の礼楽文化を定め、周王朝の基礎をきずいた名宰相の周公。礼は礼儀、楽は音楽(礼学音楽学)のことで、孔子は礼楽制度を取り入れたのだ。孔子は才能が豊かで、琴の名手としてもよく知られていた。ある人が孔子を訪ねてきた時、孔子は居留守を使って不在であると伝えさせた。そして、素晴らしい琴の音色を奏でて、在宅である旨を来訪者に知らしめたという。人の道を重んじる儒家の祖の孔子でさえ、このようなエピソードがあるのは興味深い。その真意は、私ごとき者には理解はできないが、君子であったからこそ、遠回しに表現したのかもしれない。

 また、ある時、孔子は、信頼する弟子が病気となった時に見舞いに訪れ、斯人而有斯疾也(このひとにして、このやまひあり)と詠んだ。彼は、その人がその病に罹りしことを深く惜しんだのである。この短い文の中に、孔子の深く大きい情けが感じられる。

 ここで、私は漢学者になったつもりで一句。斯人而有斯音也(このひとにして、このおとあり)。まず、音楽の心得のないものが音を出すと、その音にはゆらぎや減衰がなく、まさに雑音である。これは、神経を逆なでするもので、目覚まし時計のブザーになら使用できる。次に、小手先のテクニックだけしかない音楽では、聞く人の心には染みとおらない。さらに、孔子のような素晴らしい人格者が琴を奏でると、その弦の振動が聴く人の心の琴線を震わせるものなのである。

 ところで、孔子廟の中を進んでいくと、銀杏(杏)(ぎんなん、いちょう)の木が目に入ってくる。伝えられるところによると、杏の木のもとで、孔子が教えを説いていると、そこには道ができたと言われている(荘子)。「杏」という漢字の成り立ちは、「木」の下に丸い実「○」がついたもので、これが「杏」になったという。現在、銀杏の木は、東京都の木、東京大学の校章、杏林大学など、知識、学問、医学などのシンボルとして使われている。他方、杏の木は、梨園と呼ばれていて、ここでは芝居や音楽などの演劇が行われていたという。

 孔子廟を北に歩いて、突きあたりが本殿の大成門である。中国の3大宮殿のひとつで、孔子のまわりには、四人の賢者と12人の哲学者が控え、私も孔子にあやかるようにと、手を合わせた。そのすぐ横の建物には、約3000年前の漢の時代の石碑が残されており、いろんな絵が描かれている。万能の薬をつくるために、にゅう鉢で薬をこねている「うさぎ」。神農(医者の先祖の神様)は、山にこもり、数百種類の草を実際に煎じて飲んでみて、薬効を確かめたそうだ。百草を煎じて茶(ツア)として服用し、どれが効果があるかを調査(査ツア)したと言う(中国語の洒落)。

 また、ここに扁鵲(へんじゃく)という興味深い動物がいる。これは医者の先祖として、鶏の身体に人間の頭を持つもので、伝説上の名医なのだ!手には大きな針を持ち、患者の正面に立って、患者の前頭部に鍼灸を行なっている姿。数人の患者が、冠をはずして、治療の順番を待っている。どんなに地位や身分の高い人でも、医者の前では、冠をはずしたいう。

 すぐ横には、魚、猿、人間が順番に画かれており、これは進化を表すものらしい。人間は動物から進化したものという発想が3000年前にすでに考えられていたとは、驚くべきことだ。この概念は、後世になって、「個体発生は、系統発生を繰りかえす」というケッヘルの学説につながってくるのである。

 孔子家は、五代十国(907-979)の時代に、まさに途絶えかけたことがある。孔子家直系の子供である孔仁玉が殺されそうになったのだ。その時、乳母は機転をきかし、自分の息子の命と引換に孔仁玉を助け大切に育て上げた。彼は19才で科挙に合格し宮廷へ。機会をみて、彼は時の皇帝に直訴し、その後孔子の家系はずっと存続できたのである。この物語は、本邦の歌舞伎で有名な「先代萩(せんだいはぎ)」のあらすじと同様である。

 さて、邦楽の作曲家で世界的に知られている三木稔先生は、徳島県出身である。彼は、「オーケストラ・アジア」を主宰し、「東洋の美」を追求し表現し続けている。「うたよみざる」や「じょうるり」「ベロ出しチョンマ」「ワカヒメ」などが有名だ。「あだ」(An Actor's Revenge)は、歌舞伎の「雪之丞変化」をオペラ化したもので、幼い頃に雪之丞の命を助けた医者が登場する。三木先生の直筆のお手紙を拝見すると、東洋文化に対する先生の真摯な情熱が私の心を打つ。

 今回の視察から、「日本の文化」は「大木の枝の先に咲いた一輪の花」ではないだろうかと私は感じた。枝や葉を長い年月支えてきた幹、そして、幹を支えてきた根。土の中に広く張っているその姿は地上からは見えないが、花が咲くことができたのは、水や養分を小さい枝の先まで運んでくれた根のおかげだ。中国こそが、長い年月をかけて「根」の役割を演じてくれたのであろう。これらのオリエンタルな音楽や文化の起源は、中国であり、また、孔子であるかもしれない。

 まさに、今回の視察は、私にとって、温故知新であったのである。

●参考資料
1) 孔祥林. 孔子家の心, 扶桑社. 1996.
2) 三木稔後援会事務所 徳島市助任本町1-3-1
五藤 方 (Tel:0886-54-0823, FAX:53-5182)
3) CD盤. 30CM-443~4, 1995.

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