人々の心に花を

 ♪川は流れて どこどこ行くの
   人も流れて どこどこ行くの・・♪

 喜納昌吉さんが歌う「花~すべての人の心に花を~」。私が大好きな曲だ。心にジーンと語りかけてくる。手にする楽器は、ギターだったり、三線だったり。ムーディな曲もあるし、刺激的なロック曲も。「「ハイサイおじさん」が始まると、自然と聴衆の手足が動きだす。まもなく、音楽のパワーで、みんなが踊りだし、乱舞の渦へ・・。

 ここは、那覇市・国際通りの真ん中にあるライブハウス「チャクラ」。毎晩、沖縄の歌と踊りが楽しめる。民謡は通常、ファとシが抜けた「ドレミソラ」という音階が多い。一方、沖縄の旋律では、レとラが抜けて「ドミファソシド」という音階になるのが特徴である。

 民族衣装に身を包んだ艶やかな女性が運んできたのが沖縄特産の泡盛。そもそも、15世紀に琉球王朝時代にシャムから伝わったという酒(焼酎)だ。まろやかで口触りがよく、ついつい飲み過ぎてしまった。でも大丈夫、あれほど踊って発散し、音楽運動療法を実践したからだ。

 当地を訪れたのは平成15年5月8日。日本心身医学会が沖縄で開催されたからである。琉球王朝の子孫にあたる尚 弘子琉球大学名誉教授は、元副知事で、現在は沖縄県健康・長寿研究センター所長。尚先生は特別講演「Wellnessをささえる沖縄の食文化」の中で、100歳以上のCentenarianの数値(/10万人)を紹介した。全国vs沖縄において、男性は3.52 vs 8.18、女性は16.9 vs47.4であった。

沖縄県人が心身ともに健康とされる因子として、
1) Nature environment,
2) Ancestor worship,
3) Life is a treasure,
4) Food as medicine,
5) Relaxed daily life を挙げられた。

 沖縄料理の特徴は、「豚の鳴き声以外は全て利用する」と言われるほど、豚肉を多く使うことにある。しかし、その独特で工夫した調理法のため、余分な脂分が除かれるという。私は、このたび、ラフテー(沖縄風豚の角煮)やゴーヤーチャンプルー(ニガウリや木綿豆腐)、烏賊の墨汁(ンジャナバー)など、いろいろな沖縄の味を堪能できた。5月8日はゴーヤーの日として知られ、あちらこちらでゴーヤーの接待を受けた。

 さて、日本心身医学会や日本心療内科学会、日本バイオミュージック学会(現在、統合して日本音楽療法学会)などで長年御活躍されてきた先生がおられた。篠田知璋教授である。私は篠田先生から長年にわたって御指導を受けており、私事ではあるが、音楽療法に関わる経緯を若干、書き綴らせていただきたいと思う。

 私と音楽療法の出合いは、日本プライマリ・ケア学会の国際学会のとき。私には仕事が2つあった。一つは学会の歴史をスライドでプレゼンテーションすること。アナウンサーのように、流暢に説明できたと自負していた。しかし、漫談のようだった!?、とお誉めの言葉を頂いた。

 もう一つの役職は宴会部長。国際学会のメインとなる懇親会で、ピアノ演奏や歌の伴奏をすることだ。特に緊張することもなく、気楽にシャンソンの伴奏などを受け持っていたのである。

 ちょうどそのとき、緊張の一瞬が訪れた。聖ロカ病院の日野原重明先生が私の肩をたたき、声をかけてくださったのだ。ECFMG資格を取得し、米国のレジデンシーで臨床研修をしている頃から御指導を頂き、心から尊敬申し上げている先生である。「板東君、ピアノ演奏の腕はなかなかのものですね。是非とも、日本バイオミュージック学会に入会しなさい」と。

 直ちに入会し、音楽療法を勉強し始めた。当時から親切に御指導くださったのが、篠田知璋教授である。聖ロカ病院でも診療されており、超多忙な日野原先生と密接に連絡をとって、日本の音楽療法の歴史を作り上げてこられた先生だった。

 日野原先生および篠田先生のお陰で、同学会の学術大会を徳島という地方で初めてお世話させて頂き、1999年6月の第20回大会を無事に終了することができたのである。

 音楽療法の社会的な認知を目指し、2001年3月下旬には、日野原・篠田両先生が厚生大臣に面会。同日同時間帯に隣室では、私と(社)全日本ピアノ指導者協会の吉岡明代新教育法開発委員が厚生副大臣に面会し、スライドを用いて半時間のミニレクチャーをさせていただいた。

 その後、2001年4月には、「音楽療法士が国家資格への方向に」という報道が全国紙の1面トップに掲載。両先生の御尽力で、近い将来に議員立法への動きが加速されるはずであった。しかし、同年9月の同時多発テロや内外の諸問題のため、多くの予定がやむなく延期になった。

 2003年4月下旬、ようやく国会内で音楽療法の展開が見られ始めたそのとき、中心となる篠田先生が急逝してしまった。日本の音楽療法界にとって誠に大きな損失である。5月2日に行われた告別式には、全国から多くの関係者が参列した。葬儀委員長の日野原重明先生は、40年以上の兄弟のようなお付き合い、音楽を愛し病める人への優しい眼差し、次の世代を育てる情熱、音楽療法界への多大な貢献などについて、お話をされた。

 その会場では、篠田先生が1年前の同日に作成した自作CD「私の音楽人生」(図)が流されていた。奇しくもこんなことになるとは、誰も予想だにしなかった。人々の心を捉えるお話ぶりとピアノの弾き語り。いま手許にあるCDを聴くと、先生のお姿が鮮明に思い出される。

 篠田先生は、音楽療法の概論についてお話をされるとともに、ピアノを優しく弾く。そのタッチは、人の心に柔らかく触れているかのようだ。弾き語りのお姿を拝見したときのこと。スピーカーのウーハーから出る低音がすべてを包み込むように、先生の大きな存在に、私たちの身体や心を委ねてみたいような信頼感を感じたのである。先生のお言葉と音楽により、クライアントは安らかな気持ちになったであろう。ホスピスにおけるボランティアの活動などもされ、病める方々を癒しておられた。

 あるとき、ゆったりした雰囲気のラウンジで、篠田先生から教えていただいたことを思い出す。「板東君、心身医学や心療内科は難しい内容のようだが、本当は簡単なんだ。人間と人間の関係で大切なことは、相手の立場になってみること。もし私があなただったら、If I were you、という視点で物事を考えてみることだ」、と。

 この原則は簡単だが、実行はそれほど容易なことではない。人と人から、国と国との関係にも通じる。国際社会の諸問題も、これに由来していないだろうか。

 話は戻るが、喜納さんは歌だけではなく、ずっと以前から平和へのメッセージを発信し続けている。現在、唱えているスローガンは、「すべての武器を楽器に」である。

 音楽に国境はない。人々は言葉は通じなくても、音楽という媒体で、相互に心を通わせられる。音楽家は世界をかけまわり、国際理解や協調を主張できる。そういえば、世界的な作曲家である坂本龍一氏も、メール送付の推進運動を、グローバルな規模で行っていた。

 世界の国々を直接的に動かすのは、確かに政治家である。しかし、草の根レベルでメッセージを伝えていく場合、立場にしがらみがない音楽家や芸術家が果たす働きは大きいと思われる。これらの音楽と医学の領域を包含する音楽療法界をリードされてきた篠田先生のお心は、多くのお弟子さんに引き継がれ、近い将来に、必ずや大きく花開くであろうと、確信している。

 ♪涙流れて どこどこ行くの
     愛も流れて どこどこ行くの
 そんな流れを この胸に
     花として 花として むかえてあげたい
 泣きなさい 笑いなさい
     いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

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