ワルツとコルチゾン
                                           (医学と音楽No.1)
 「ピアノ」の詩人ショパン、彼は数多くのワルツ曲を世に残しました。その調べは優雅で気品にあふれ、色々なドラマを私たちの脳裏に蘇らせてくれます。鹿野館で踊る貴族たちの姿、オードリヘップバーンがマイフェアレディの中で踊ってみせた軽やかなステップ・・・、まさにワルツは私たちをmerry-go-roundの世界に誘います。

 そのショパンのレコードの中で、特にお薦めしたいCDがあります。天才ピアニストと絶賛された、リパッティ演奏のショパンワルツ集で、最高傑作の一つとされています。(CD:EMI Angel CC33-3519)。

 リパッティは1917年にルーマニアに生まれました。その才能は天才と称されるにふさわしく、4才で慈善公演を行い、ブカレスト音楽院に特別入学が許可されるほどでした。その後、彼の完成と技術はより一層研ぎ澄まされ、17才の時国際ピアノコンクールに出場、結果は2位に入賞しました。しかしその時、審査員コルトーは審査結果に「許しがたい誤審だ!彼の演奏こそが優勝に値する」と憤慨し、即時審査員を辞任したとほどでした。そのような彼にデュカスは「我々に教えることは何一つない」と語り、プーランクは「神々しい精神性を持つ芸術家(Kunstlers von Gottlicher Geistligkeit)」と賛辞を送りました。

 しかしそんな彼に、静かに忍び寄る黒い影・・・、彼は不治の病に侵されてしまったのです。演奏旅行にもドクターストップがかかりはじめるようになり、1949年には病魔が急激に彼を衰えさせはじめたのです。

 その頃、アメリカで発見されたばかりのコルチゾンの注射が、病状の進行を遅らせるのに効果があることがわかり、彼にとって唯一の希望となったのです。しかし、新薬のコルチゾンは非常に高価で、注射代は当時で1日50ドルもかかりました。その窮状を伝え聞いたミュンシュやメニューインなどの音楽家や、彼の才能に魅了された匿名の好楽家たちから、相次いで善意による多額の支援金が集まり、たちまちのうちになんと何カ月分のコルチゾンが確保されるまでにいたったのです。

 コルチゾンの効果により彼の病状は1950年5月頃から小康を保ち、ピアノ演奏の収録が許可されるようになりました。しかし関係者の間では「コルチゾンの効果もせいぜい2カ月」という危機意識が流れ、彼の最後になるかもしれない収録に相応して、最高のセッテングが急ピッチで行われたのです。

 録音はスイスのラジオ・ジュネーブに決定。ピアノはハンブルグのスタインウェイ本社でコンサートグランドが特別に作られました。録音装置は仏HMVが米コロンビアに貸与中の最新型装置を急遽スイスに回送させるなどし、当時の最高水準のセッティングが実現したのです。

 天才リパッティのために、数多くの関係者の努力と協力によって1950年7月、2週間にわたりEMIで収録されたのが、この「ショパンワルツ集」のCDです。収録中彼は病魔に蝕まれていく身体を横たえることなく、そして笑顔を絶やしませんでした。それは彼を支えてくれた総ての人たち・輝く太陽・どこまでも蒼い空・スイスの夏の自然・・・、彼をとりまく総てのものに感謝するかのようでした。

 「完全にマスターした曲でなければ公開の席では絶対に弾かない」彼のPerfectionismは最後の最後まで変わることはありませんでした。それゆえ1音符でも疑問の残る曲はプログラムに載せることはなかったのです。収録中の彼は細心精緻を極め、納得するまで何度でも弾き直す彼は、まさに「命と引き替え」そのものだったと言われています。

 収録を終えた同年9月、フランスのブザンソン音楽祭でリサイタルが開かれました。この時すっかり衰弱し、歩く事さえやっとの彼は、「約束を果たしたい」という一念で周囲の反対を押し切り、舞台に上がったのです。その時の彼の弾くショパンのワルツ、その調べは変わることなく気品に満ち、あふれる感性で聴衆を魅了しました。しかし13曲目まで弾いたところで遂に力尽き、もう二度と鍵盤にふれることはなかったのです。享年33才、あまりにも早い天才の死。病名は「白血病」でした。

 このワルツを聴くたび、崇高で神秘的な宇宙のイメージが私の身体を包み込みます。リパッティの芸術は、これからもずっと私たちの心の中に一筋の光を灯してくれることでしょう。

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