ロンドンとあわの名医

 「オペラ座の怪人」をロンドンで観た。繁華街として知られるピカデリーサーカスには、マジェスティック劇場がある。以前、「オペラ座の怪人」が日本で上演された際、印象的だったのは、怪人がオルガンを弾き、それに合わせて歌姫が歌うシーン。ロンドンのステージでも、この場面では、怪人が「My Music, my Music !」と、心の奥底から絞り出すような声で呻る。歌姫も鏡の前で、揺れ動く心が、微妙な仕草で表現される。歌や踊り、雰囲気などは、さすが、本場ならではのものがある。ヨーロッパで生まれ育ち、歴史や文化が身体に染み着いている人が演じると、やはり、ひと味もふた味も違うような気がした。

 イギリスの歴史や文化の概略を知りたいと思い、博物館を検索した。「地球の歩き方」を片手に、24時間乗り降り自由の市内バスに乗り、まず大英博物館を訪れた。ここは、世界最高の宝物館で、まもなく250年となる。設立のきっかけは、サー・ハンス・スローンという内科医。彼は医業の傍ら、探検家として世界中を回り、遺跡や民族品などのコレクションは何と8万点にのぼった。

 その後、国が管理するようになり、古今東西の歴史的な文化遺産がここに集約されている。入口の近くには、有名なロゼッタ石。表面には3種類の文字で書かれた文章が彫られ、古代のロマンが甦ってくる。また、ローマのパルテノン神殿の貴重な大理石の数々なども、部屋一杯に並べられている。かつて世界で君臨した大英帝国の権力を見るようだ。何といっても、アーティクルの多さとスケールのでっかさに茫然としてしまった。

 英国はかつての大英帝国から現在の福祉国家へと変貌したが、歴史を大切に扱う風土が感じられる。数えられないほどの博物館があるのが、英国の文化だと言えよう。何から語り出しても、ぐるぐる回りながら、最後には文化にたどり着くのである。

 このたび、私は興味深い展示に出会った。阿波徳島の名医が、日本代表として紹介されていたのである。科学博物館の4、5階は、世界の医学史のフロア。ヒポクラテスもいれば、パスツールもいる。ここで、世界的な産婦人科医の賀川玄悦が私を迎えてくれたのである。

 賀川玄悦(元禄13-安永6年、1700-1777)は、京都で活躍し後に阿波藩の藩医となった(図1)。明和2年(1765年)に、彼の莫大な臨床経験を集大成した名著「子玄子産論」(4巻)が刊行されたが、これは近代日本産科学の最初の書物であった。この書は「日本産科問答」の形式でオランダ語に翻訳され、有名な蘭学の医者シーボルトによって欧州医学界まで紹介されたのだ。

 彼が残した医学的な業績の中で、最大なものは、正常胎位の発見である。すなわち、胎児は「上臀下首」であることを、世界にさきがけて発見し、論じた(図2)。その箇所には、「妊娠5ヶ月以後になると、胎児は瓜の大きさになり、必ず背面倒首の姿勢をとる。」とある。杉田玄白は、「解体新書」巻四の中で、「今この説を作るは以て子玄子のこの道に功あるを称するなり」と述べているほどだ。

 さらに、玄悦は回生法(鉄鉤法・切胎術)というわが国最初の産科手術を行い、数多くの産婦の生命を救った。彼の門弟は、賀川流産科を継承し、江戸末期、わが国産科医の十中八・九は賀川流産科を学び、明治以降の西洋産科学受容の素地を作ったのである。

 本邦の近世医学では、世界に誇ることのできる大きな仕事が3つあるという。それは、華岡青洲の全身麻酔(1805)、賀川玄悦の正常胎位の発見(1765)、大矢尚斎の腎臓機能の実験(1800)であり、特に、賀川玄悦は、わが国の近代産科学の創始者といっていい人で、特筆すべき点が多いと、賛辞を述べている。日本婦人科学会は、昭和18年に玄悦墓碑を改築し、昭和52年には、同学会と日本医史学会は顕彰碑を建立するなど,先生の遺徳を偲んだのである。

 玄悦の功績は、国際的にも評価されている。以前には、天皇陛下が、玄悦の人類愛と学問上の功績を称賛し、第9回国際産婦人科連合世界大会(1979年)でスピーチを行い、医学雑誌サイエンス(1990年)にも論文が掲載された。

 初代の玄悦に引き続いて、賀川家は京都で産科学をおさめた。3代目の玄悦は、はなはだ篤学の士で産科学に多くの工夫を加え、当時産科医として高名であった。彼は京都で御殿医として、明治天皇をも取り上げている。その後、8代目玄道は、京都から徳島に移り、代々阿波藩医を務めた。9代目玄庵は、藩医学校を創設し、これが現在の徳島大学医学部へと続く。また、10代目一郎は、徳島医学会の発会式典で学術講演を行い、賀川式箆(へら)型穿ろ器などを発明し、特許まで取得。また、徳島産婆養成所ならびに看護婦養成所を開所し、現在の徳島県医師会と附属看護学校へと発展してきたのである。

 その後、11代清子は産婦人科の女医で、趣味は日本音楽や茶の湯、生け花で、「本県刀圭界に咲く一輪の名花」と言われた。12代悦子は東京芸大の井口元成の門下生として研鑽したピアニスト。13代となる潤は、南極越冬観測隊の医療担当に選ばれた経験があり、現在徳島で脳外科医院を開業している。

 私事で恐縮だが、12代目の悦子先生は、私のピアノの先生で、恩人である。先生には、ゆったりとした心の余裕があり、芸術、文化、教育、医学など、幅広くお教え頂いた。再現芸術であるピアノ演奏だけでなく、編曲や作曲などアドリブを行う電子オルガンも推奨。男の子にとって、音楽は生活の糧とするより、趣味とするのがよい、と医学部進学を勧めてくださった。大学に入学後は、音楽より身体の鍛錬が重要だと、スポーツを勧められ、私は現在に至っている。

 古い資料を調べると、玄悦が正常胎位を発見した同じ時期に、英人William Smellieもイギリス国の産科書に初めて正常胎位を説いていることがわかった。文化の異なる国で同じ研究が進んでいたのは不思議な縁を感じる。賀川玄悦という偉大な名医が、当時、英国でどれほどの高い評価を受けたか。日本の演劇ファンを魅了して止まない「オペラ座の怪人」のごとく、彼の国では「ニッポンの快人」と映っていたかもしれない。

資料
1)緒方富雄. 蘭学のころ、昭和25年.
2)酒井シヅ. 日本医療史、1982.
3)賀川明孝. 賀川玄悦の系譜とその周辺. 四国電話印刷(株)1995. この書籍は、平成7年度徳島新聞社賞を受賞した.
4)杉田玄白. 解体新書, 安永3年, 1774.
5)阿知波五郎. 医史学点描, 1987
6)A set of Anatomical Tables with Explanations and an Abridgment of the Practice of Midwifery, London 1754.
図1 賀川玄悦 の肖像画 
図2 子玄子産論の正常胎位を説く頁 

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