ベートーベンとワイン

 1995年の暮れもおし迫り、日本全国では、ベートーベンの第九交響曲「合唱」の演奏会が多く行われている。この暮れの「第九」現象は、本邦だけにみられるが、なぜだろう?その答に「第九忠臣蔵説」というのがある。どこの公演でも満員となり、商売としては間違いなく儲かるので、わかっちゃいるけどやめられない。そもそも、歴史的には終戦直後に、なんとか越年資金をという楽員たちの切実な願いからスタートしたものだが、これに、ベートーベン最後の交響曲という特別な意義を感じる日本人の心情が加わった。さらに、経済的繁栄と生活のゆとりから音楽を楽しむ人が多くなるなど、これらが絡み合って、今日の盛況となったとも言われている。

 さて、本邦における「第九」の初演は、いつどこで行われたか、ご存じだろうか?実は、大正時代に、徳島県の板東という地でドイツ人たちにより初演されたのである。

 その当時の歴史をひもといてみよう。第1次世界大戦が始まると日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東(シャントン)半島にある青島(チンタオ)を攻撃した。敗れたドイツ兵士約5,000人が捕虜となり、日本各地の収容所に俘虜として送られ、約1,000人が1917から2年8カ月を板東俘虜収容所で過ごした。松江豊寿氏が所長を務めたが、彼は戊辰戦争で官軍に敗れた会津藩士の子であり、敗者の気持ちを理解する包容力のある人であった。「ドイツ兵も国のために戦ったのだから」というのが口癖で、ドイツ兵の健全で快適な生活に配慮したのである。なお、彼と俘虜の友愛の物語が1994年に直木賞を受賞したので参考にするとよい。

 収容された俘虜たちは、松江所長や所員たちのヒューマニズムあふれる管理方針により人道的な処遇をうけ、自主的で自由な生活を送ることができ、板東俘虜収容所は「模範収容所」として世界的に注目されていた。ここでは、既製の建物以外に俘虜たちによって様々な施設が作られた。ボウリング場のある商店街や、山の中腹に建てられた多くの別荘をはじめ、レストラン、印刷所、温泉浴場、化学実験室、図書館、音楽堂、植物園、菜園など、さながらドイツ人の町が、この地方に出現したようだった。

 また、驚いたことに、日本で最初の健康保健組合が作られていたことがわかった。収容所のすべての編成部隊からの代表者が集まり、数日で計画がまとめられ、1917年4月20日に収容所健康保健組合が設立された。その基本理念は、資力を持たず、援助を必要とする収容所の病人すべてに、日本側から提供されない適切な病人食、栄養剤およびその他の補助手段という形で援助と負担軽減をすること、彼らの運命を和らげその回復を速くするために、あらゆる方法で病気の戦友達の力となること、であった。同年4月20日から12月31日には、毎月平均20名の患者の給食を行い、2名お重症疾病者を転院させた。7月には2つの薬局を開き、8月から12月に4594回の治療を行った。その内訳は包帯処置1538回、その他の怪我873回、頭痛、風邪に856回、下痢に267回少量の薬剤が交付され、栄養剤92本が渡されている。1917年には収容所内の健康状態は恵まれ、伝染病もなかったが、1918年11月にはスペイン風邪が流行し、俘虜の70%が罹病。3名がインフルエンザに起因する肺炎で死亡し、徳島陸軍病院で中瀬、三島、桜井軍医が組合と協力して診療したことや、各年度の決算などが収容所新聞「バラッケ」に詳細に記されている。

 浮虜たちは、地域の人々から「ドイツさん」と親しみをこめて呼ばれ、隣人として地域社会と豊かな交流があった。牧畜、製菓、製パン、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど当時の進んだ技術や文化を伝えて指導した。また、演劇、スポーツ、講演会など多彩な活動を行い、1918年3月の「板東俘虜制作品展覧会」には、近郊の町村などから延べ5万人が訪れ、前代未聞の人で賑わったという。特に、音楽面では、複数のオーケストラや楽団、合唱団が定期的にコンサートを開き、様々な曲を演奏した。そのような中で、1918年6月1日に「第九」が日本で初めて全曲演奏されたのである。

 このうわさを聞いて、東京からわざわざ徳島まで第九を聴きにきた人がいる。紀州徳川家の十六代目の当主徳川頼貞(1892-1954)である。彼はのちにわが国における「第九交響曲」演奏のパトロン的役割を果たした。彼が書いた「會庭楽話」の中の「第九見聞記」の一節には、俘虜たちが腕によりをかけた見事な料理を楽しみ・・ハイドンの「驚愕交響曲」と「第九」を聴き・・・音楽家でもない多くの素人達の真摯な態度に敬意を表し、彼らの教養とドイツの文化に羨ましさを感ぜずにはいられなかった・・・、と記されている。

 彼らは何を求めて、この困難な大曲を演奏したのだろうか?確かに、収容所の生活は自由で模範的であったというが、いつ開放されるともわからない捕らわれの身では、家族や恋人、故郷を思う限りない望郷の念と、自由への願望があっただろう。ベートーベンの生涯は第九ならぬ「大苦」の連続であった。運命にうちひしがれる弱い立場の人間が苦闘を重ね、遂には勝利をかち得るのを身を持って範を示し、魂を鼓舞し、勇気を与えた。「第九」の1・2楽章では、激しい闘いや苦しみを打ち破り、堂々と前進するなど人生の高揚期を思わせる。そして、楽しかった「あの頃」を思いださせるようなゆったりした美しい第3楽章。さらに、第4楽章のやがてくる輝かしい飛翔への歓喜の大合唱。当時俘虜たちの平均年齢は29.9歳。若い彼らは、合唱の中で収容所の生活を一日も早く終わりたいとする解放の叫びとして、力いっぱい繰り返し歌ったのではないだろうか?

 1920年にはほとんどの俘虜が祖国に帰り、収容所はその後軍隊の演習用兵舎や第二次世界大戦後は大陸や南方からの引揚者用の住宅となった。ある日、ここに住んでいた高橋春江という一主婦が、薪取りにいく途中、草むらの中に一基の見なれぬ墓を発見した。これは11名のドイツ兵士の墓であった。抑留、引揚げの苦労や戦争の悲惨さを体験していた彼女は、それと知って、以来十余年香華を絶やさず守りつづけたという。この善行は駐日ドイツ大使を通じて本国へ伝えられた。その後、本国からの手紙がきっかけとなって両国の友好が復活し、1972年には収容所があった近くに鳴門市ドイツ館が建設され、1974年にはドイツ連邦協和国のリューネブルク市との姉妹都市の盟約が結ばれた。さらに、1982年には鳴門市文化会館の柿(こけら)落としの公演として、市民手作りの「第九」の演奏会が盛大に開催された。この演奏会は「第九」初演の地における64年ぶりの快挙として、全国に大きく取り上げられた。それ以来、毎年6月には「第九」の演奏会が続けられている。「第九」を一緒に歌いたい方は、ドイツ館に問い合わせてみるとよいだろう。

 ドイツ館には、多くの写真や遺品などが納められており、第九の初演のプログラムもある。すこし色あせているが、当時の高い印刷技術によるものらしく、かなり手のこんだ謄写印刷(多色刷り)で作られている。表紙にはベートーベン像とリボン付きの大きな月桂樹の環が描かれ、裏表紙には、演奏は徳島オーケストラで、80人の男性合唱団、指揮者、独唱者の名前が書かれてある。

 1階のロビーの片隅にはドイツのいろんな名産が置かれているが、ふと見るとワインのラベルにベートーベンがいる(下図)。このワインはドイツのケーヴェリッヒ醸造所で作られているのだが、なんと、ここはベートーベンの母親マリアの生家なのである!当時、彼はこのワインを飲みながら、「第九」を作曲したと伝えられている。それでは、由緒あるワインに乾杯!

 
 参考文献
 1) 鈴木淑弘. 第九と日本人. 春秋社.
 2) 戦争が行われている場所で捕らわれた場合を捕虜、敵の本国に送られた場合を俘虜と呼ぶ。
 3) 林 啓介, 他. 板東ドイツ人捕虜物語. 海鳴社.
 4) 林 啓介, 「第九」の里ドイツ村, 井上書房. Tel 0886-72-1133, 著者Tel 0886-89-1253.
 5) 富田弘, 板東俘虜収容所, 法政大学出版局.
 6) 中村彰彦. 「二つの山河」, 文芸春秋.
 7) 鳴門市ドイツ館 〒779-02 鳴門市大麻町檜字東山田55-2. Tel 0886-89-0099,FAX 89-0909.
 8) 入手先: ESPOAマルキチ, Tel.0886-52-6856.

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