ヒポクラテスを訪ねて

 いま私は、医聖ヒポクラテスと一緒にいる。場所は、ギリシャの首都アテネから東へ飛行機で約50分、地中海に浮かぶコス(Kos)島である。

 本島が有名な理由は、ヒポクラテス生誕の地であるから。彼は諸国で医学を修行したあと故郷に戻り、医学を数多くの門弟に教えた。つまり、コス島が「ヒポクラテス学派の聖地」なのである。
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 2005年9月、世界家庭医学会(略称WONCA)欧州大会が、コス島で開催された。筆者は学会に参加するとともに、ヒポクラテス縁りの名所旧跡を訪れてみた。

 その一つが「ヒポクラテスの木」である(図1)。医学の父・ヒポクラテスがBC450年頃、この木の下で弟子たちに医学を伝授したとされる。特に「患者のことを第一に考えなさい」と弟子に諭したという。

 ギリシャは地中海性気候で、温暖で雨が少なく過ごしやすい。この環境で、枝を大きく広げ、掌状の葉が陽光を優しく受け止めてくれる。その木陰で、ヒポクラテスが、弟子を育てている姿が、目に浮かんでくるようだ。

 植物学的には、この巨木はプラタナスで、ヨーロッパで最も聖なる木とされている。古代ローマの時代には、プラタナスの木陰に人々が集い、もっとも良い庇蔭樹と考えられていた。日本では、明治8~9年頃に渡来したプラタナス(学名Platanus Orientalis)が、「鈴懸(すずかけ)の木」と呼ばれている。街路樹などにも使われているので、御存じの方も多いだろう。

 「ヒポクラテスの木」を訪れた医師が種子を持ち帰り、日本の医学校のキャンパスにも植えられている。ちょっと調べただけでも、信州大学、九州大学、山形大学、東京大学、高知医大、金沢医科大学などで、木のゲノムが子孫に伝えられ、年輪を重ねているようだ。
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 国際医学会のテーマは「ヒポクラテスからゲノムまで」であり、アテネ大学の内科教授が本テーマで基調講演を行った。図2が講演で最初のスライドである。

 ヒポクラテスの言葉として、よく知られているのが「VITA BREVIS ARS LONGA、OCCASIO PRAECEPS、EXPERIENTIA FALLAX、JUDICIUM DIFFICILE ・・」である。

 英語に訳すと「Life is short, and Art is long:time fleeting; experience erroneous, and judgement difficult ‥」となり、さすがに名言だな、と思う。

 この中で、最初の部分「Art is long」が、議論のポイントである。つまり、「技術が長い」のか、「技術を修得するのは時間がかかる」なのか、2つの解釈が可能となってくるからだ。

 この考え方については、長年議論が続いてきている。従来、本邦では「芸術は長く、人生は短い」と訳され、知られてきた。しかし、本来、artとはarmに由来する言葉であるので、芸術というよりも、腕、技術、学芸、勉学に近い意味である。従って、次のフレーズ[time fleeting](光陰矢のごとし)を合わせて考えると、「勉学を継続しある程度にまで到達するには、人生は余りに短い」と解釈するのが、妥当かもしれない。

 ただし、英語でも日本語でも、暗喩として複数の意味が込められているものが、心打つ言葉となるものだ。特に、コンパクトにまとめられた一説ほど、作られた時代と場所を把握しなければ、正確な解釈は難しいだろう。

 「VITA BREVIS ARS LONGA」の本当の意味は、ヒポクラテスにお聞きしなければ、わからないのかもしれない。
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 ヒポクラテスが唱えた言葉に、Physis(ピュシス)がある。これは「自然の力」を意味するもので、Physisを増進する一つが音楽であろう。

 アテネに滞在中、BC6世紀に建てられたパルテノン神殿があるアクロポリスを訪れた。ディオニソス劇場やイロド・アティコス音楽堂の規模に驚いた。円形劇場で数千人が集うことができる。古代ギリシャ劇場は豊饒のお祭り広場であり、人々は陽気に歌い踊ったという。この集団はコロス(choros)と呼ばれ、コーラス(chorus)に派生した。ギリシャ語で、踊る場所(オルケスターイ、orcheisthai)からオーケストラ(orchestra)が、そして、見る(テアスターイ、theasthai)からシアター(theatre)という単語が生まれたのである。

 当時、ステージでは、どのような歌や踊りが披露されたのだろうか? 民族舞踏で有名なレストラン「ネオス・レガス(ΝΕΟΣ ΡΗΓΑΣ、Neos Regas)を紹介してもらい、早速足を運んでみた。ブズキ音楽やベリーダンスなど多彩な演出を楽しんだ。パ予想していた通り、フォークソング調の音楽で、みんなで歌いながら手を組み輪になって踊るのが特徴のようだった。
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 私は外国に行くと、必ず博物館に立ち寄ることにしている。歴史的な芸術文化の品々が集められているので、その国の全体像を、最も効率良く把握できるからだ。 

 国立考古学博物館(ΕΘΝΙΚΟ ΑΡΧΑΙΟΛΟΓΙΚΟ ΜΟΥΣΕΙΟ、National Archaeological Museum)には、本国の遺跡の出土品のほとんどが収められている。じっくり見学すると半日以上はかかる大規模なものだ。

 私の目を奪ったのが、1884年にケロス島で発見された音楽人像である。「竪琴を弾く人物像」と「フルートを吹く人物像」は、キクラデス文明の中で、2800-2300BC頃のもの(図3、4)。いずれも大理石性の小さな彫像であり、その立体構造は、専門的見地からも当時の特徴に一致する。これほどの質の芸術作品を生み出せることは、これに先行し芸術を育む時代が存在したことになり、驚嘆に値するものであろう。
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 世界で民主主義発祥の地はギリシアだ。BC7世紀頃に選挙制度も作られ、BC4~3世紀に学問と芸術が発展し、偉大な哲学者ソクラテス、プラトン、アリストテレスが活躍した。アリストテレスにより唱えられた「カタルシス理論」が、20世紀になって米国の精神科医アルトシューラーが発表した「同質の原理」へと展開していく。

 今回は、医学の父であるヒポクラテスによるart of practice of medicine(医の実践のアート)を再認識でき、ギリシアの歴史・文化も堪能でき、充実した出張となった。

図1 ヒポクラテスの木
図2 ヒポクラテスからゲノムまで
図3 竪琴を弾く人物像
図4 フルートを吹く人物像

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