オリンピックに芸術競技

 オーストラリアのシドニーで、待望のオリンピックが開幕。今世紀最後の大会である。私が特に気になる競技は、ソフトボールと野球だ。いずれも、私自身が長年関わってきたスポーツ。小学生時代からソフトのピッチャーを務め、高校時代は高校総体に出場し一回戦負け。大学時代は準硬式野球部で二塁手「殿馬」として白球を追っていたからである。オリンピック競技の中に、インライン(ローラー)スケート競技はまだないが、将来採用されれば、8-12年後に私はオリンピックを目指したい!

 冗談はさておき。オリンピックでは、世界中の選手達は、勝つために努力し、メダルを目指す。勝負は一目瞭然だ。強い者が、速い者が勝者となるのである。

 オリンピックの競技は当然スポーツのみ、と誰もが思っている。しかし、かつて、オリンピックには、スポーツ競技と芸術競技の二つがあったことをご存じだろうか?実は、音楽部門で唯一、銅メダルを受賞した日本人がいるのである1)。

 ここで、歴史を少しひもといてみよう。クーベルタン男爵の提唱で始まった「近代オリンピック」。当時の規約には、「オリンピックはスポーツと芸術の二つの部門で競技を行わなくてはならない」という一章があった。実際、芸術を極める人々にとっては、素晴らしい国際的コンペテションの場を提供されていたのである。

 第二次世界大戦前、ヨーロッパではヒトラーのナチス・ドイツがいよいよその地歩を固めつつあった。ゲルマン民族の意識高揚を狙い、第11回オリンピックのベルリン大会を「民族の祭典」と銘打ち、昭和11年(1936年)に大規模に開催。当時、スポーツ競技はもちろんであったが、オリンピック規約にある「芸術部門の競技」も華やかで、全世界の芸術家たちが応募した。

 絵画部門には、日本から若き日の東山魁夷、小磯良平、棟方志功が出品したが、いずれも落選し、日本画を専攻する無名の藤田隆治と鈴木朱雀が入賞した。

 音楽部門には、日本から5人が応募。国内審査員である山田耕筰と諸井三郎、新興作曲家である箕作秋吉と伊藤昇、それと江文也であった。

 この中で、江文也が、作曲の部で銅メダルを受賞したのである。芸術競技に日本が参加できたのは、ベルリンオリンピックが最初で最後であった。というのは、次の開催年である昭和15年は第二次世界大戦で開かれず、昭和19年のロンドン大会では、日本、ドイツ、イタリアは参加を拒否された。この大会以降、芸術部門の競技は規約から削除されてしまったからである。すなわち、彼は、日本人でただひとりの、オリンピックで入賞した音楽家なのである。

 しかし、偉大な足跡を残しながら、なぜか忘れ去られた作曲家になってしまった。彼は天才的な「日本人」であるのに、音楽史上にも不思議に登場してこない。それはなぜだろうか?

 文也は明治43年(1910年)、当時の日本の植民地、台湾省に生まれたが、国籍は「日本」であり、「日本人」であった。彼は優れた作曲家であるとともにバリトン歌手として活躍した。オペラファンなら誰でも知っているのが、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」。これを日本で初演し歌ったのが文也であった。筆者も伴奏ピアニストを務めさせて頂いたことがあるが、この曲は情感豊かで人の心を揺り動かすパワーがある。

 その後、文也はオペラ「タンホイザー」の主役を務め、NHKで放送された。日比谷公会堂でのステージには台湾から多くの人がつめかけ、台湾新民報には「音楽の天才江文也氏に聴く」と報道。台湾の誇りとして、郷土訪問音楽団が組織され、台湾7つの都市で文也の演奏会が開催されたほどであった。

 作曲については、長谷川和夫、李香蘭が主演した「蘇州の夜」などの映画音楽を担当した。松島詩子の歌うレコード「知るや君」は、A面が島崎藤村作詞「知るや君」、B面が「シュロの葉陰に」となっているが、A面の作曲、B面の作詞作曲も文也が行ったのである。

 これほど能力もあり活躍もしていたが、日本音楽コンクールの声楽で2年連続、作曲で3年連続、なぜか常に二位であった。オリンピックで銅メダルを得た曲名は「台湾の舞曲」。当時の日本で作曲家の大御所の曲が入賞せず、文也の曲が入賞してしまった。オリンピックにおける入賞は楽壇の世界で大きく取り上げられず、台湾出身という暗黙の差別に、文也はいらだっていたと伝えられている。

 おそらく、当時の一流の作曲家が文也のスコアを一見すれば、彼の能力、曲の斬新さを瞬時に認識できたものと思われる。私程度の者においても、子供のピアニストでも将来必ず伸びるという可能性や、シンプルな曲でも作曲者のブリリアントな才能などをビビッと感じることができる。だから音楽やスポーツを究めた人にとって、若い人の音楽的才能や運動神経のレベルは、一瞬にして理解できてしまうだろう。

 かの有名な映画「アマデウス」を思い出してみよう。サリエリがモーツァルトに会うやいなや、尋常でない才能に愕然。将来、宮廷音楽家としての自分のポジションが危うくなる可能性を感じ、神から授かったその才能に嫉妬した。芸術家の才能や感性の素晴らしさは、その領域の先輩が評価し、人に伝えなければ、他の人には分からない。先達がダメと言えば、世の中に出る芽を摘まれることになる。芸術の領域では、このような場合が起こりうる。個性的で斬新な発想やアイデアは受け入れられず、闇に葬られることもある。日本では、先人の立場や組織の安定のために、良い機会を与えられなかった人もあったことだろう。自由の国である米国なら、個性ある人こそが価値があると考えられている。

 もし、スポーツ競技のように、タイムという客観的な数字があれば、だれも異論をはさむ余地はない。スピードスケートならタイムのみが判断されるが、フィギアスケートの芸術点の判定は、人によって異なる。美に対する評価は難しい。

 文也は、昭和11年に北京に出発し、12年には中華民国臨時政府の国歌に相当する曲を完成。北京中央公園の大広場で、日本と中国の混成大ブラスバンドで演奏し、中国全土に放送された。昭和13年には北京師範学校教授として迎えられ、その後は優遇されて、昭和19年には国立音楽院院長となり、前途洋々と思われた。

 しかし、昭和20年日本が無条件降伏し、北京は国民党政府の治下に移り、文也は中華民国籍となった。日本軍部に協力したとの理由で、「文化漢奸」として投獄。文化大革命が終わったあと、他の文化人と同様「平反」で解放されたが、すでに健康を害していた。肺気腫、胃潰瘍に加えて脳卒中で倒れ、五年後に73歳でこの世を去った。

 当時の文也の曲を、現代の専門家が評している。「最近の坂本龍一などが使う作曲パターンを、文也は昭和の初めにすでに取り入れ駆使している。まったく新しくものだ。これでは、江文也が日本の現代音楽の先駆者だったというのも無理はないだろう」と。

 このように、文也は天才作曲家であったが、台湾、日本、中国、中華民国の間で、政治という波間に漂う小さな木の葉のような生涯を送った。オリンピックの歴史には、このような人生も隠されているのである。

 まさに今、開催されているオリンピック。戦争後に芸術部門がなくなり、今は勝つだけのためだ。昔は「参加することに意義がある」と言われていたが、今は「勝ちさえすれば良い」と変わりつつある。これが、自分さえよければよいという、人のエゴ、国のエゴにつながってくる。

 音楽は人の心を豊かにする。もし、今でも五輪の中に芸術部門が生き残っていれば、人と人、国と国との関係が、もっと良くなっていたかもしれない。

 現代の五輪は、ドーピングや、選考過程をめぐる様々な問題がある。五輪とは、五つの輪が支えあって協調する「平和の祭典」のはずである。しかし、次第に、本来の意味からはかけ離れて来ているように感じるのは、私だけだろうか。五輪の意義をあらためて考えてみたい。

 国境がないとされる音楽は、人の感性に訴え、人に涙させる。21世紀に向けて、芸術家を育てようとする空気があれば、もっと思いやりが溢れた世界になるであろう。

<参考文献>
 1)井田 敏. まぼろしの五線譜 . 白水社, 1999.

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