ゆっくり詠んで考えよう

 平成15年2月、新宿の紀伊国屋ホールで、六作品日替わり連続上演が行われた。演劇倶楽部「座」による「詠み芝居」である。泉鏡花、芥川龍之介、浜田広介、伊藤左千夫、宮沢賢治、上田秋成という文豪6人の15作品を、連日6日にわたって上演するというものだ。

 ちょうど私が観劇した第5日目は、宮沢賢治の名作シリーズの日。「グスコーブドリの伝記」、「セロ弾きのゴーシュ」、「猫の事務所」、「注文の多い料理店」の4作が、舞台用に構成されたものだった。朗読者はステージの端で、賢治の原作を詠む。淡々と読むこともあれば、感情を込める場合もある。俳優は舞台上で、台詞をしゃべりながら、自然な演技を続ける。

 劇が始まった後に興味深い点を見つけた。それは、人形を活用すること。登場人物の少年と少女を二人が演じる際に、小さな人形を使う。人形の頚部~頭部を後ろから左手で支え、人形の右肘を右手で掴んで動かす。すると、人形がうなずいたり、首を横に振ったり、右手を振ったりするなどの動作ができる。遠くを眺める場合、人形の右手を額の上にかざして、顔をすこし上方に向ければよい。

 実は、この人形は普通の人形ではない。その顔には、目がなく表情がないのである。初めに顔を見たときには、私は驚いてしまった。

 これと逆の人形を直ちに思い出された。腹話術で知られる「いっこく堂」だ。彼の素晴らしい技術と演技を目のあたりにして、私は感服してしまったことがある。いっこく堂の口元は全然動かない。特異なキャラの人形は、大きな目をくりくりと動かし、あまりに印象的過ぎると思う。

 また、伝統芸能の一つ、人形浄瑠璃の舞台の情景も心に蘇ってきた。着物を羽織った大きな人形の顔や形は、役柄に応じてカラフルで特徴的。能や狂言で使う仮面にも、様々な表情がある。「能面のような」という表現があるが、見る角度によって、能面は笑ったり泣いたりするのだ。

 人形とは、人の形をしたもの。日本各地には、顔がのっぺらした人形もあると聞く。もしかしたら、顔とは決められたものでなくて、各自が心の中でイメージし作り上げるものかもしれない。

 私が注目したのは「セロ弾きのゴーシュ」。ゴーシュは下手なチェロ(cello)弾きで、いつも楽団の足を引っ張っていた。しかし、動物たちはゴーシュのセロを聴いて病気を癒すことができた、という物語。音楽療法の分野では必ず紹介されているもので、是非ともいちど読んで頂きたい。

 舞台に登場するチェロは、本当の楽器ではなく、布で作った可愛い縫いぐるみ。あたかも、毛並みがふさふさした茶色の動物のようで、ゴーシュの左手と一体化している。ぶらんぶらんと揺れる姿が、何とも微笑ましく感じられた。

 本劇で、音楽を挿入する手法は斬新だった。通常なら、クライマックスのシーンでは必ず音楽が加わる。ドラマでも映画でも同様だ。音楽の併用により、心理的に相加相乗効果が得られてくるからである。

 しかし、本劇では、淡々と進む朗読や言葉によるコミュニケーションが主であり、演技や仕草は従であった。この状況に、わざわざ音楽が分け入ってこない。意図的に邪魔をしていないのだ。だからこそ、静かな中にも、言葉に重みを持たせて、心にぐっと迫ってくるのではなかろうか。

 音楽が奏でられるのは、場面が変わり舞台が暗転するとき。音楽を担当するのは、キーボードとパーカッション、ヴァイオリンのわずか3人だ。舞台の後ろのスクリーンが半透明になっていて、演奏する彼らの姿が、暗闇の中でぼーーと浮き上がる。ほとんど真っ暗だからこそ、音楽に神経を集中できたのかもしれない。

 このたび、いろいろと観察しながら感じたことがある。舞台上には、大道具など大がかりなものはほとんど見当たらない。椅子や机、台、ドアなど若干の小道具があるだけ。しかし、大きなウェイトを占める言葉と若干の演技によって、観ている人々の心の中に、大きな世界が広がっていったことだろう。

 本劇はいくつかの物語を同時並行させるため、演出には工夫がなされていた。しかし、台本を作り上げる際には、原本の文章には手を加えず、文学者の言い回しを忠実に守っているという。舞台効果を狙った誇張表現や演技はみられない。

 演劇倶楽部「座」を主宰し演出を担当している壌晴彦氏は、「かつてこの国が持っていた芳醇な言葉、艶冶な言葉、力強い言葉を劇場空間に解き放ち、私たちの、みなさんの内なる言語の豊かさを回復したい」と述べている。

 言葉とは、本来、文化の礎になるものだ。近年、かつてのゆったりと深遠な文化から、せわしく軽薄な文化になりつつあるような気がする。これに伴って、日本語という言葉も危機的状態になっていないだろうか。みかけ上、言葉が乱れているのは誰もが感じているとは思う。しかし、もっと根源的なものとして、内容を伴わない強調語や刺激的な感嘆詞が増え、考えることを忘れているのではないか、とさえ感じたりする。

 そもそも、日本語ほど、心理描写や婉曲表現に優れ、含蓄を持つ言語はなかった。源氏物語から1000年。わび、さび、に加えて奥ゆかしい表現をこなす土壌や文化があったはず。以前の大衆小説においても、表現には深みがあり、英語に訳そうとしてもできなかった。読者が文字を読んで自分で考え、各自がイメージを膨らませていたのであろう。しかし、現代の作家が書く文章は薄っぺらく、簡単に英訳できるという。

 いま、日本語ブームが到来している。先駆けとなったのが、齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」。「生涯の宝物になる日本語~鍛え抜かれ、滋養にみちた言葉を暗誦・朗誦すると心と身体が丈夫になる」とあり、私も同感だ。

 国際的には、曖昧模糊とした日本語が駄目と言われる。英語を学ぶと、欧米の文化や考え方が次第に身についてくる。次第に、東洋と西洋とが融合された尺度で、考えるようになる。しかし、考えるといっても、良いか悪いか、プラスかマイナスか、好きか嫌いか、人や物の価値を、見かけで一瞬に判断してしまう、ということが少なくないようだ。

 これには、テレビの普及が関係あるように思われる。テレビ放映が始まったのはわずか50年前。NHKのプロジェクトXでも紹介されたので、ご存じの方も多いだろう。映像の発展の歴史は素晴らしい。今ではBSやCSもあり、衛星中継で世界はいつでも目の前にある状態である。

 注意すべきことがある。映像に慣れると、何も考えずにそのまま受け入れてしまう。考えるという習慣がしだいになくなる可能性がある。かつて、テレビが急激に普及しだしたときのこと。評論家の大宅壮一氏が、「一億総白痴化」という言葉を使って、日本人の思考パターンに与えるテレビ文化に懸念を表明したことがある。その予言が、まさに適中しているようだ。

 これは、ある意味で、日本文化と言語が重篤な病気になっているのと同じである。明らかな病原体なら抗菌薬で対応できるが、敵の姿や形がはっきりしない。生活習慣病と同じように、各自で価値観が異なるので特効薬はなく、適切な対処がうまくできないのではないだろうか。

 さて、話は戻るが、賢治はユートピアを目指し、人々に農業の手ほどきをしながら、物事を深く考え膨大な著作を残した。図書館で彼の全集をみると、ワープロがなかった時代によくこれほど書き綴ったものだと、と驚かされる。

 また、研ぎすまされた感性で、賢治は音楽にも造詣が深かった。「銀河鉄道の夜」には、「あのなつかしいセロの、しづかな声・・」と記している。作詞や作曲をした歌も数多く残されており、「星めぐりの曲」、「牧歌」、「月夜のでんしんばしら」、「イギリス海岸のうた」、「剣舞の歌」などが挙げられる。この中で前者3曲を収録した楽譜集が、このたび出版された1)。「音の宝石箱 ~宮沢賢治「星めぐりの歌」~ 」である。本譜にはコンパクトディスク(CD)が添付されており、賢治の3曲や、筆者が演奏した癒しの曲などを聴取できる。賢治や音楽療法についての概説もある。機会があれば、いちどお聴きいただければ幸いである。賢治の言霊や音楽が、あなたの心の中に小宇宙を誕生させてくれるかもしれない。

資料
1)呉竹英一. 音の宝石箱 ~宮沢賢治「星めぐりの歌」~ .ドレミ出版、東京、 (20数曲を含む音楽CD付き楽譜集, 2002年11月30日発行, 1800円)

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